金曜日の朝、NHKのニュースを見ていた子どもたちが「このニュースさっきもやった」と言う。朝のニュースは時間帯によって繰り返し同じ原稿が読まれることがあるから別に驚かなかったのだが、よく見ると確かに昨夜見たニュースも流している。全部を見たわけではないが、昨夜から朝にかけて、報道するべき新しい材料がなかったかのようだ。
そんなはずはない。少なくとも26日から国会では各党の代表質問が行われている。首相の施政方針に対する代表質問なのだから、この国の行方を左右するおおきな話題であるはずだ。それぞれの質問に
論評を加えるのはむしろこれからなのではないのか。
一旦はNHKの怠慢かと思わないわけでもなかったが、待てよ、と。確かに木曜の夜もニュースで取り上げられていたし、それを見た。だが、あの代表質問がどれ程真剣な議論だったのか考えると、確かに翌日の朝にも取り上げるほどの意味があったとは思えない。まさか天下のNHKが同じ判断を下したとは思えないのだが…。
首相の答弁は、「細かいことは与野党協議で考えたい」と言っているようにしか聞こえない。つまり国民から税金を取る以外に中身が何も決まっていないようだ。それに対する自民党も、とにかく敵失を大げさに取り上げて解散を迫る手法のようだが、では仮に選挙が行われ自民党が政権を奪回したら税と社会保障はどうするのだ。消費税は5%で凍結するとでも言うのか。そもそも10%は自民党が「抜本改革については超党派円卓会議で」とまでご丁寧に盛り込んだそれこそ
マニフェストに掲げたことではないのか。
もはや国会はどちらの主張に聞くべきか考える場ではなくなった。目くそと鼻くその貶し合い。うまい汁だけは談合して吸い続けるその腹がまる見え。つける薬はないのだろうか。ないんだよなぁ…。
農村伝道神学校で「キリスト教概論」を教える授業も先週で講義が終わり、今週は映画「
ミッション」を受講生と一緒に見て最後となる。評価はこのビデオの感想文を書くことで合格という手はず。
学生たちと一緒に物事を考えるのはなかなか刺激的だ。自分にとっても勉強になる。特に「信仰」とか「真理」とか、とかく検証の対象にならないものを扱うのだからなおさらだ。自分が学生だった時よりも今の方が遙かにその意義を感じることが出来る。
わたしたちは、普通に「信じる」ということばを使うが、何を、どう信じているだろう。クリスチャンとして「信じる」対象は「神」あるいは「キリスト」なのだが、それらの言葉が指し示している事柄はそれほど自明なことではない。わたしたちが知っているのは「神」そのものではなく「神についての言説」であるからだ。聖書はいわば言説の寄せ集め。それらの証言を通して、あるいはそれらの証言によって、わたしたちは信仰を養われる。しかし、証言は必ずしも全て一致しているわけではない。時に矛盾している記述もある。重点が異なる記述もある。それらを通しても養われるのだ。それを「ただ一つ」に決めてしまうことには無理がある。ましてそれが単なる数あわせで「正しい」と定められることに、一体どれだけの意味があるだろうか。
ブレることがすっかり嫌われる風潮になったわたしたちの社会。だがブレないことがそんなに大事なことなのだろうか。変化することは認められないのだろうか。何が何でもシロかクロかでなければならないのだろうか。
こんなことを言う自分に驚いている。わたしはずっと白黒はっきりしていなければ許せなかった。グレーであることは最も嫌っていた筈なのだ。それがこんなことを言い出すとは、変節だしブレまくりではないか。
わたしを変えてくれたのは「一つ」を標榜する方々のおかげだな。冷笑。
「「神が合わせたものを、人が離してはならない」と結婚式で言われたのに、どうしてこういうことになってしまったのでしょう」。愛する妻が無言の帰宅を果たしたその時、徹さんがわたしにぶつけてこられた問い。病名がわかってからわずか3ヶ月というあまりの早さ、その間に出くわした様々な出来事。それらの思いがつまった問いだったに違いないのに、わたしはその問いに答えることが出来なかった。
「なぜ死ぬのか」という問いは、「なぜ生きるのか」という問いの裏表だ。「なぜ生きるか」という問いに面と向かって生きているようでいて、一方突き詰めなくても生きていける。「なぜ死ぬのか」についてはよほどのことがなければ考えようともしない。その答えが見つかって死ぬのか、見つからなくても死ぬのか、死に臨む本人に聞くすべはない。
結局のところわたしたちは、考えても考えなくてもとりあえずは生きていけるように出来ているのだろう。だが、愛する者の死に直面すると、考えなくても出来てきたということがどれだけ幸せなことだったのか改めて気づかされる。同時に「意味ある生」へと目覚めさせられる。「死」とは、生きている者への警鐘であり鉄槌なのかも知れない。
多くの方々が古川奈菜さんとの別れを悼んだ。急な知らせは大きな衝撃を与えたことだった。冬の夜にもかかわらず、古川さんのお子さんたちの関係者だろうか、たくさんの小学生や幼稚園生もお母さんと一緒に参列されていた。川崎教会のブログも、奈菜さんが亡くなった翌日から訪問者が飛躍的に増えた。参列を予定した人たちが、ネットで情報を得ようとされたのだろう。
奈菜さんはその最期に、「生きること」「死ぬこと」の意味を一緒に考えるという大きなチャンスをくださった。司式者としてその機会を十分に活かすことが出来ただろうか。
南太平洋のサモアに昨年12月30日は無かった。
これは日付変更線を地図上で見ればサモアの西側から東側に変更したためにまる1日分が消えてなくなったもの。これによってサモアは「日付が変わるのが世界でいちばん早い国」のひとつになった。
テレビでも報じられて、一日が消えてしまったことが「未来へのタイムスリップ」だと“おもしろい”ニュースとして伝わった。そのニュースの最後に一言「貿易相手国としてのオーストラリアなどと時差を解消することで利益があると判断した」と伝えられたが、本来ならそれはもっと注目されるべき理由ではなかっただろうか。
サモアが自国の標準時を東側の時間帯に設定したのは1892年だという。当時世界の覇権が英国から米国に移り変わり、サモアの地勢から見て自国の標準時を米国に近づけ対米強化する方が有利と判断したのだ。それから120年を経て、サモアはいわば米国を見限ったということだろう。オーストラリア・ニュージーランドは言うに及ばず、アジア地域に近づくことを選択/宣言したことになる。
日本の外交戦略に慣らされてしまった者から見たら、ずいぶん思い切った国策の変更に見える。我が国の為政者を始め国民の大多数も、「米国を見限る」ことなど金輪際出来ないだろうし、思考もしないのではなかろうか。しかし、である。GDP一人あたりの金額が日本の17%を切る小国サモアが、複雑な背景があるとしてもこういった驚くべき選択をなしえる時代になったのは事実であり、一方わたしたちは旧態然とした体制から自由になれないでいることもまた事実なのではないか。
自主・独立とは一体何だろう。世界の趨勢に変化が起ころうとしている今、自分が立っている足下を良く見つめるよう促されている気がしてならない。