幼稚園の教師たちと、パソコンソフトのExcel勉強会を始めた。
わたしが教えるのだから全然専門的ではないのだが、それでもいろいろな便利機能が満載されたソフトをそれなりに使えるようになることは嬉しいし楽しい。参加した先生たちも楽しんでいるようだ。
だが実は、教えているわたしの方がたくさんの気づきを与えられている。まがりなりにも人に教えるためには、わかってもらえるように伝える必要がある。わかってもらえるように伝えるのは実はとても難しい。その機能を良く理解していなければならないし、間違いやすいのは何故かもわかっていた方が伝わりやすい。必然的に、参考書類をよく読むようになったし、事前に本当に動くかどうかチェックも怠れなくなった。経験知(暗黙知)だけでは教えられないのだ。それがわたしにとっても面倒ではなくむしろ楽しいし、いろいろと発見もある。
「教える」「教わる」という関係は、往々にして主従関係・上下関係のようにイメージされるが、その実ほとんどの場合相互干渉関係にある。一方通行であることはほとんどない。初心者のなんとはない感想の一言がベテランをハッとさせることがある。信仰のない者が如実に神を指し示すことがある。教える者がすべてを持っていて、教わる者がなんにも持っていないなどということはないのだ。
だから、わたしたちの歩みにとって最も大切なのは「対話」なのだろう。それぞれの立場はあって良い。立場上の判断や物言いもあるだろう。だが、その根本には「対話」がある。特に、検証可能な「形式知」ではなく、「真理」だの「神」だのを扱う者は際だってそうであるべきだ。
日本基督教団の二年に一度の総会が近づいた。「真摯に」とは言わない。だが「対話」を重んじて欲しい。神は「規則」にではなく、心にいます。