幼稚園はこの金曜日に、ようやく全ての子どもが集ってフル稼働となった。新入園の子どもにとっては初めて親を離れて幼稚園で約二時間あまりを過ごす、大冒険の一日。玄関にはいつまでも賑やかな泣き声が響いていた。
わたしが学んだ
高校は「自分探し」をテーマとしている。なにもその高校だけの専売ではない、あちこちで見受けられるコピーではあるのだが、多感な時代に相応しいテーマだと改めて思う。もちろんわずか三年で、複雑きわまりない「自分」を探し当てられるわけはない。せめてその糸口でも何かを掴めば、それが後の人生にだんだんと大きな意味を持つように自ずと育ってくるのだ。そして、もしそうなのであれば、例えば幼稚園時代もまた、一人の人間の生涯にそれなりに意味を持つような何かが、まさしく植えられる時代でもあろう。
人間は快適さという文明の磨きをかけてきた。労苦せずに済むようにいろいろなことを整えてきたのだ。果敢な挑戦のいわば最後の枷が、人間の「育ち」なのではないか。どうがんばっても「促成栽培」できないのだ。その代わり、たくさんの異なった肥料を開発した。それによって立ちはだかる壁を少しでも乗り越えやすくしようとした。しかし、実はそれらの壁は、人間が生きる上で、営むことによって、初めて得られる成果を生む貴重な源だったのだ。
わたしたちはいつでも「良かれ」と思って余計なことをしてしまう。悪意あってならまだしも、まるで悪意なく──あるいはそれが悪意になるのだと気づかずに──簡単に為を思う。だが肝心の命は、チャレンジの機会を奪われ、いつまでもひ弱なまま年を重ねてしまう。
子どもたちが玄関でママを求めて泣き叫ぶ幼稚園の春の風物詩のさなかにあって、この経験がこの子にとって大事なのだと改めて思う。厳しさや苦難を避けて人は成長出来ない。明日を夢見て、ガンバレ、子どもたち!