わが幼稚園の園長の仕事のひとつに「おたより」の発行がある。
この「おたより」に保育上の様々なお願いを記すことがあるのだが、わたしが就任して以後の短い間でも、そこでの綴り方に変化が要求されるようになった。何か。それは事例を細かく具体的に表記する、ということだ。
例えば、クリスマス会のページェントは礼拝そのものなので、おたよりには「礼拝中の撮影はしないで」と書いたとする。書く側は写真やビデオを想定する。だが、「携帯で撮影はよいのか?」などの質問が寄せられたりする。そのため「撮影しないで」だけだった文章が「カメラ・ビデオ・携帯機器などを使った撮影はしないで」と具体的な表現になる。これは一例だ。
これは単に「10年前の保護者は理解してくれたが最近は理解力が低下している」と言いたいのではない。暮らしが豊かになった分、かつては必要のなかったことまで一つひとつ表記しなければならなくなったということだろう。さらに根拠が求められることもあるので、表記漏れを避けたくなる心情もある。いきおい、文面がどんどん具体的になり、その分長ったらしくなる。
「公平・中立」を是として、それに反するテレビは停波する可能性に言及した総務大臣の発言に、改めて「公平・中立」とは何か考えさせられる。「おたより」は、幼稚園側の意向を伝えるモノ(メディア)であって、決して公平・中立ではない。である必要もない。第三者的視点で公平・中立であることがどのような場合でも最上位ではあり得ない。仮に最上位のことがあるとしたら、それはその人固有の体験、その人の真実以外にないだろう。つまり、発言というのはどんな場合でも、どこまで行っても、本当は個人的なことだ。「公平・中立」も、実は個人的価値観に過ぎないのではないのか。
思いは伝わらない。なぜなら伝えたい思いは総て個人的なことだから。だから伝わったときはそれだけでことさら嬉しい。それで良いではないか。