「未受洗者が聖餐式に与ることや、補教師による聖礼典執行は自由だとする考えのもと、その実施をなす例が見られます。これは明確な教憲・教規違反です。そして教会としての生命を奪い、教職同士や教会間の信頼関係を損ねる重大な問題として放置しておくわけにはいきません。
当事者の自制を促すと共に、正しい聖礼典の執行をめぐり、措置をとっていく所存です。」
これは日本基督教団議長の「2007年度教区総会への挨拶」、10項目の中の2番目に取り上げられたものの全文である。いわゆる「聖礼典のみだれ」に対して教団として何らかの措置をとるという。
「教憲・教規に違反する行為は教会間の信頼を損ねる」というのがその根拠であるようだ。わたしとしても教憲・教規を大切にしている一人だが、わたしの「大切にする」その仕方について、「それは『大切にしている』ことにはならない」などと決めつけられるのはイヤだな、と思う。
愛の表現が「ただひとつの方法以外とってはならない」とされたら、誰もがナンセンスだと思うだろう。「信仰の表明」にそれが認められず、規則に添った表現方法が唯一であるとし、それに反する者に「措置」をとるなどと教団議長が表明すること自体、ナンセンスである。
大事なのは「大切にしている」ということを「大切にする」センスだ。その仕方がどれほど異なっていても、「大切にしている」という事実を認める意外に、共に歩むことなど出来まい。まず相手を全否定してから伝道するとでもいうのだろうか。カルトでもあるまいに。
規則は心を縛れないのだ。それが規則の限界なのだ。イエスがもたらした「解放」とは、まさにそのことだったのではないだろうか。