わたしたちの日本基督教団は、第35総会期第3回常議員会で「北村慈郎教師に対し教師退任勧告を行う件」を可決した。
日本基督教団には戒規施行細則がある。これによると教師に対する戒規は「戒告」「停職」「免職」「除名」であり、しかもこれらは全て日本基督教団教師委員会において審議され、構成員の3分の2以上の同意を得て施行される。
従って今回の常議員会で可決された「教師退任勧告」は、そもそも「退任勧告」なるものが日本基督教団には存在せず、教師の戒規に関わることを常議員会で審議することも認められてはいないもの、ということになる。戒規に常議員会が関わるのは、適用を受けた教師が不服を申し立てる場合のみ、それを教団議長に上告し、2週間以内に常議員会を開き、審判委員を任命して審判させることだけである。いわんや教団議長自身が告訴することは出来ない仕組みなのだ。
今回越権をするということは、従って別の意図があるということなのだろう。それは事柄と人物を狙い撃ちにする行為、わたしたちにとって恥じ入ることはあっても忘れることは赦されない「旧6部9部弾圧」の歴史を、今ここで再現してしまったのだ。
教師は教会によって招聘される。教区はそれを承認する。教団は同意するに過ぎない。教会の招聘という自明の権利を、教団議長が飛び越えて「退任勧告」することを認める教団になったということは、今後いかなる理由でも──ねつ造であってすら──各個教会総会決議を無視し、越権することを許したということだ。
「退任勧告」に法的根拠はないから無意味だ、という意見もあるだろう。だが、全体主義が教会の主権を侵す行為を座して認めるわけには行かない。教団にファシズムは無用だ。