教会総会に向けて、さまざまな資料を作成する時期になった。
昨年は転任直後ということもあって教会総会を5月に開いたが、それでもわからないことだらけで、準備にせよ総会そのものにせよ何となく中途半端だった。今年はようやくほぼすべてを見通せる中で準備に当たっている。とは言っても、たくさんの資料を上手に整理する几帳面さは持ち合わせていないので、手許にある週報と役員会記録が中心。それでも面白いことに、ひとつの出来事を記すと、その時の情景がありありと思い浮かべられるのだ。もちろん、記憶が長く止まる保証はないし、今後もその年ごとにその状態が継続出来る保証はないのだが、それでも「今、リアルに」思い浮かべられるという儚い心情を大事にしていたいと思う。
以前、神学校の後輩に生意気なことを語った記憶がある。「わたしたちは『自分の名前による福音書』を書き続ける仕事を選んだのだ」と。教会の一年をふり返るこの季節になると、そんな若気の至りの言葉にも一縷の真実味があったな、などと思えてくる。確かにわたしたちは、神話や伝説ではなく、今、この時に、この場所で働かれる神の出来事を目の当たりにする民だ。それゆえに「総会資料」はたとえば株式会社の株主総会資料とはおのずと違ってくるだろう。このわたしに、このわたしたちの教会に、生きて働かれる神の出来事を、受け止めつつ歩んだ者たちの記憶であり、それを留めた記録なのだから。
もちろんそのあゆみは無謬ではないし、問答無用の正義を体現しているわけでもない。問題もあり課題もある。重大な疑義も生じるかも知れない。それでも、そのすべてをひっくるめてなお、やはり神の出来事の記録なのだろう。そんな思いで準備を進めている。