大分県の教員採用をめぐる汚職事件で、大分県教育委員会は2007年に不正に合格した21人の採用を取り消し、併せてそれ以前までについては不正合格者のデータが復元できないために処分を行わないことに
したという。
夏休みの経験を携えて勇んで二学期登校したら、担任の先生が免職になっているクラスが小中学校で20クラスもあるということか。それほど処分は迅速ではないかも知れないけれども、いずれにせよそうした事態が迫っているということだろう。
それにしても、県教委の発表では07年度の採用者は全部で76人。そのうちの21人が不正な手段で合格していたのだ。21人全員が確信犯というわけでもないだろう。「本人のためよかれと思って」手を差し伸べられていた人もいるやも知れぬ。処分が07年度だけということで、それ以前に不正を行った人は、胸をなで下ろすのだろうか。あるいはその陰を引きずったままで子どもたちの前に立つのだろうか。
今回も「教員」ということで特に注目される話ではある。世間もメディアも、いわゆるカッコ付きの「聖職」が不正を行うと、扱いのランクが上がる。しかし、どうだろう。教職にだけある特別な不正だったのか。一般職とか臨時職とかは無縁なのか。そもそも大分県だけの話か。ひょっとしたらこの国のシステムには長いことこういった慣習が横たわっていたのではないのか。「カバン/カンバン/ジバン」を神器とするお偉いセンセがたを筆頭に、町村役場の臨時職に至るまで、こと「税金」にありつくあらゆる場面に、こういったことは平然と行われてきていたのではなかったか。
バラク・オバマは指名受諾演説で「勤勉に努力することで、個々人が夢を追求できる「米国の約束」が米国を際立たせてきた」と
語ったという。一方、かつて「勤勉」と称されたこの国は、至るところメッキが剥がれ落ちている。