オリンピックに熱狂していたわけではないが、幼稚園の夏休みとオリンピック開催日がうまく重なってしまって、テレビも新聞も、ニュースに限らずあらゆるプログラムにオリンピックが入り込んでいる状況に直面させられてしまい、知らない間に随分と北京オリンピックにはめられてしまっていた。
「ママでも金!」と広言していた選手が銅メダルに終わったことが象徴していたと思うのだが、オリンピックの柔道は何だかわたしが想像する競技とは別物のように思えた。それが国際化ということらしいのだが、何となく釈然としない。かの選手はオリンピックに向けて組みあって一本勝ちを狙う戦法をやめて、ポイントをとる戦法に切り替えたという。そして結果的にそれが裏目に出てしまった。多くの柔道選手たちが国際化された柔道と、いわば伝統的な柔道との狭間で苦しんでいるようだった。
自分が取り組んでいるスポーツ種目が国際化されることに一体どれほどの魅力があるのか、わたしには皆目わからない。というか、柔道を見ている限り、むしろ魅力はなかったし、ポイント制の試合はつまらなかった。やはり豪快な投げを決めてなんぼではないのか、と思ったのだった。
しかし一方で、自分の属性が評価され、あるいはグローバル化されることの魅力が強力な誘惑を伴うであろうことはわが日本基督教団の歴史にもありありと浮かんでいる。わたしだって人一倍「認められたい」症候群罹患者である。それでも、認められたいばかりに自分を見失ったり、あるいは別物にしてまでも認められることを喜ぶかどうか──安易には答えられないが──何だかそうではないような気がしきりにするのだ…。
大相撲はどうやら一般的なスポーツの世界とは違うらしい。薬物反応が出るとメダルも記録も剥奪されるような世界とは一線を画するらしい。まぁ、確かにあれはスポーツではなく興業なのではあるが。