新年早々飛び込んできたニュースはイスラエルがガザに地上部隊を侵攻させたという、なんとも重苦しくなる話題だった。
中東問題はなかなか理解できない難しさがある。中東に限らず、世界情勢は「普通の」感覚しか持ちえない者にとってどんどん難しくなっていくように感じられる。それにしてもわたしたちのその普通の感覚で言えば、ほかならぬ聖書の世界を舞台にして、戦争が止まないことが辛く重苦しいのだ。
こういった問題を解説する情報はたくさんある。それらを読み進めているとどうしてもある部分で拒否反応が出てしまうことに気づいた。その原因が何なのか、なかなかつかめなかったのだが、ようやくわかってきたことがある。
たとえば経済の問題で言うところの「経済戦略」などでは拒否反応が出なかった。それは、この種の「戦略」に人間のいのちが問題になっていないからだった。もちろん、経済活動によっていのちが脅かされることが全くないわけではないし、昨今の世界不況の状況はそのまま、人間のいのちの問題であることが浮き彫りにされているのではあるが、しかし所詮はモノの売り買いに関わることである。第一義にいのちの犠牲を伴わない。
しかし、中東問題に絡む世界情勢の解説を読むと、そこで読み解かれる「思惑」は、まるで人のいのちなど眼中にないかのようだ。どういった戦略で空爆しあるいは地上に侵攻すれば、どこの勢力が味方になり有利に交渉に持ち込めるだの、この状況が続けばこの思惑は達成できないだの、「動き」としての世界情勢は確かにわかる。だがそこに、その思惑達成のために踏みにじられるいのちへの思いはない。ボードゲームのように語られるその語り口に、たまらない違和感を、拒否感を感じたのだった。
国(=単なる政治体制)の存続のためにいのちが犠牲にされること。その愚かな構図を、我々は未だに受け入れなければならないのだろうか。