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No.532 言葉だけ罷り通る、でいいの?

エッセイ「多摩川べりから」
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 つくづく私たちは「改革」「変革」という言葉に弱いんだな、と思う。しかも不思議なことに、どこからどっちへ改革するのかを全く問わずして、ただ「改革」という言葉だけがあればそれで満足までしてしまう。どうやらそういうふうに飼い慣らされてしまっているらしい。
 この国の構造はとても面白い。素晴らしくもなくステキでもないが、その分面白い。だって、いわゆる「保守」と呼ばれる陣営は盛んに憲法を「変えよう!」と叫び、逆に「革新」と呼ばれる陣営が必死になって憲法を「護れ!」と叫んでいる。保守すなわちメンテナンスをする者たちが、メンテナンスではなくて廃棄してしまいたがり、本来なんでも新しくしようとする者たちがそれを後生大事にしようとする。このねじれ現象はこの国だけのものなのかどうか、私には証明する手立ても熱意もないのだけれど、とにかくそんなあべこべ感が面白い。
 変えるべきものと変えてはならないものという基準ではなく、変えたいものという基準しか持たない者が無意味に「改革」という文字を連呼するだけなのに「何かやってくれそう!」なんて感情移入までしてしまう。物事をありのままに見る目をあっさりと捨て、雰囲気しか見ないのが私なのだなぁ。
 「はっきり言って、文部省に入ったときは、なんて沈滞した組織だと思いましたよ(苦笑)。誰も新しいことをやろうとしないし、仕事をしないための仕事をする人の集まりに見えました」。今や時の人となってしまった前川喜平さんが文部科学審議官の頃、本の対談で述べた言葉だ。公務員というとただただ「高給取り」「ろくな仕事をしていない」というレッテルでしか見られないのだが、そんなはずはなかった。むしろ自分に与えられている基本的人権を脇に置いて封印してでもやらねばならないことはやって来た人だった。「特区」か何か知らないが、こういう人を人格攻撃することが「改革」ではなかろう。
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