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No.545 所有と憂い

エッセイ「多摩川べりから」
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 山口での経験。他住教会員の弟さんが亡くなって葬りの儀式を司った。この方が亡くなるとお連れ合いが一人暮らしになるのだが、東京に一人娘が結婚して住んでいていずれは同居するだろうとのこと。だが当面ご遺骨をどうするかという問題に直面した。わたしとしては墓を新設すること以外の別の選択肢もあるという意味で教会墓地に収めるという方法も提案した。生活の拠点を別のところに移すとなるとお墓の管理も大変だろうし、その点教会墓地ならば少なくとも個人よりは長続きするだろう分、管理も行き届くし永眠者を記念し続けることが出来るからだ。様々な検討をなさった上で故人の好きだった瀬戸内海を眺められる小高い丘の上に新規に開発された墓苑の一つを購入された。
 ある時は納骨式を司式するために、防府のちょうど対岸にあたる大分県国東半島に出かけたこともあった。道すがら通うことも大変だという話をしながら、それでも同行できる家族がいることが慰めでもあったようだった。
 遠野市で働いていた時分には大農家の本家の苦悩もあずかり知った。本家を継ぐということは恩義の歴史を継ぐということでもある。受けた恩を一生かけて返し続ける責任があるのだと。冠婚葬祭はその顕著な現場だ。だが、責務を果たす家族は昔とは異なる核家族。継続・継承は焦眉の課題なのだった。
 こういう様々なやりとりを経験する中で、教会が冠婚葬祭を行い、墓を所有する、ということの意味(意義)をじっくりと考えさせられたのだ。
 所有することは憧れだったり夢だったりするが、ひとたび所有してしまうと、それを後々にまで継承することや管理し続ける問題を持つことにもなる。“備えあれば憂い”無しと呼べるほど無邪気なことではなさそうだ。
 対ミサイル避難訓練も“憂い無し”を目指したのだろうが、却って憂いが増した気がする。それは本来の「備え」ではないからなのだな、たぶん。
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