8月はいろいろな言葉が聞かれる季節でもある。
「「ノーモア・ヒバクシャ」を訴えてきた被爆国の私たちが、どうして再び放射線の恐怖に脅えることになってしまったのでしょうか。自然への畏れを忘れていなかったか、人間の制御力を過信していなかったか、未来への責任から目をそらしていなかったか……」。9日に行われた長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。田上富久長崎市長は
平和宣言の中でこう語った。
「戦争にしろ、天災にしろ、いま生きている私たちのなすべきことは、「記憶を持ち続ける」ということです。」15日の全国戦没者追悼式。横路孝弘衆議院議長が
追悼の辞でこのように述べた。
わたしたちは忘れてしまったのだろう。繁栄・発展の中で、忘れてはならないものを忘れ、目の前にあるきらびやかなものに目を奪われてきてしまったのだ。8月が来る度にその姿勢を恥じ、反省してきたはずなのに、それなのに今年は特別な8月を迎えてしまった。
「あいつら日本人じゃないんだ」「日本人が堕落したからこんなことになったんだ」は、同じく15日の
石原都知事の言葉。前者は全閣僚が靖国を参拝しないことについて述べ、後者は菅政権の混迷について述べたという。まさにこういう日本になったのはあなたたちのせいではないのか。彼にはその筆頭であるという自覚がどうにもないらしい。
「「イロシマハ、ナツノキゴカ」と問ふサラに冬には詠まぬ我を恥ぢたり」。8月6日、東京新聞の「
筆洗」欄で紹介されていた
小川真理子氏のうた。小川さんは1970年生まれという。若手といっては失礼だろうか。だが彼女のハッとしたというその感性こそ、わたしたちが忘れてしまってはならないもの、失ってしまってはならないものなのではないか。もしそれを「日本人の心」と敢えて言うとするならば。
急な計画で実質一日半という慌ただしさだったが、息子を連れて秋田に帰省した。川崎に戻るといろんな人から「涼しかったですか?」と尋ねられたが、残念ながら秋田も暑かった。もちろん日が翳ると──家の周りは田んぼなので──そこを渡ってくる風は幾分涼しいが、日中は秋田といえども暑い。
事実到着した翌日の
8日は、その暑さのためか東北電力の供給余力が2.73%まで逼迫し、夕方のトップニュースでさらなる節電が呼びかけられもした。
10日午前8時からはこれまでで最大の170万Kwを東京電力から融通された。
あれ? 東京電力も供給能力に限界があるからと節電が呼びかけられていたのではなかったか。福島第一原子力発電所の事故以来、「節電かブラックアウトか」と脅迫され続けてきたような気がするのに、それだけ融通が出来る能力を持っていたのだろうか。訳がわからない。
もちろん大規模事業所や一般消費者の節電もきわめて協力的だったようだし、
政府広報も盛んにテレビCMを流して協力への感謝が述べられてはいる。夏の休業などで需要が一時的に減ったともいわれる。だが、なんだかそれら全てが眉唾に思えてくるのだ。こと「電気」に関してはどうにも不信感が止まらない。悉くウラがある気がしてならない。
もちろん省エネや節電は、それ自体十分に存在意義がある──「地球のため」だとか「
がんばろうニッポン」だとか、ヘンに力んだり無理に崇高な目標を立てなくても──。過度に電気依存する生活をこの際見直すことも悪いことではないはず。それは第一に自分のためであって、ひょっとしたらその積み重ねが幾ばくかでも周囲や社会に意味あることとなっていくかも知れない。その程度でいい。その代わりいつまでも誰かのせいにしない。与えられた状況を、むしろチャレンジとして楽しむ。
そういう者にわたしは…なれないか。
66年目のヒロシマの日は、これまでとは別の感覚に支配されつつ迎えることになった。新たな核の脅威──「平和利用」の名の下に「核と人類は共存できない」教訓を忘れ去ってきた傲慢が引き起こした新たな脅威の下にこの日を迎えることとなってしまったのだ。
「原子力の平和利用」という言葉は1953年にアイゼンハワー大統領が初めて使った。翌1954年から日本において原子力開発体制が胎動し始める(
原子力白書 昭和31年版より)。1955年12月に「原子力三法」が国会を通過、翌56年1月には原子力委員会が発足し、57年8月には第一号研究用原子炉が東海村に誕生する。医療や発電などの分野で原子力を用いることが「平和利用」と呼ばれ、その言葉に包まれて国民はバラ色の未来を夢見た。
しかし、例えば発電においては、放射線のリスクゆえに電力の消費地と生産地は隔絶され、過疎地に住む人たちをさらに札びらで分断する阿漕が大手を振るった。さらに維持・管理のために大量の被曝を前提とする作業員を確保しなければ成り立たないゆえに、人格・人権を無視されて当然であるかのような差別がまかり通った。「平和利用」と呼ばれる現実のどこにも「平和」は描かれない代物だったのだが、多くのわたしたちはそのことを知らずに済むようにはじめから甘言によって分断されてきていたのだった。
原子爆弾によって放射線の恐ろしさを身にしみていたにもかかわらず、「平和利用」という言葉に惑わされ続けた58年。その脅威がきわめて身近なものになったこの年をこそ、覚醒の時としなければならないだろう。瞞されてきた、知らされないで来たという言い訳は、現実を知った今もはや通用しない。核と人類は共存できるのか出来ないのか、自分のこととして結論づける時が来ているのだ。
自分のいのちと未来を他者に託してはならない。
久しぶりに新潟に出かけた。
朝の新幹線、何の気なしに乗り込んだがよく見ると案内板に「東京を出ると新潟まで停まりません」と書かれている。1時間30分ほどで到着するのだ。わたしが高校生の頃はもちろん新幹線は開業していなかったが、それでもL特急ときが頻繁に往復していた。その時分でもずいぶん早くて近いのだと思っていたが、ちょっと桁が違っていた。
前回は学校見学のため家族みんなで車で出かけた。その時もずいぶん変化した印象を受けたが、今回は一人旅の気軽さでフットワーク軽く懐かしの町中を散策した。30年以上前歩いた通りは確かに目の前にあるが、あの頃「裏日本随一」と喧伝された大都市もずいぶん落ち着いたたたずまいに見えた。川崎という不夜城に、しかも繁華街の中に居住しているが故の感覚なのかも知れないが。
だが、気になったことは建物が軒を連ねていた印象と現実がずいぶん違ってきたこと。あちこち歯抜けのように建物がなくなっている。中心商店街でもそう。尤も大半の店が水曜定休ゆえ余計寂しさが募ったのだろうか。
いや、やはりこの国はここ30年ほどですっかり首都圏・東京の一人勝ち状態が定着したのだ。ありとあらゆるもの・ひと・カネを搾取しながら、首都圏集中が加速してきたのだ。都市化・集中化は大量の過疎地を生み、それだけでなく都市自らにスラムを大量に形成する。いわば宿命。だから国全体から見たら貧しさの現れなのだ。それを誤魔化そうとするから余計にきらびやかに装わざるを得ない。
3・11は、それがいかに虚飾であったかをまざまざと見せつけた。わたしたちはいつの間にか我を忘れる巨大な装置の中で蠢いていただけなのだ、ということを。