14年ぶりの引越、行き先が今の住まいより大分小さくなるので思い切っていろいろなものを捨てた。捨てざるを得なかった。
断捨離といえば「スリムになって心もスリムに!」みたいな良いことしか聞こえてこないが、私にとっては全く逆だった。持っているものを捨てる(棄てる)ということがこれほど心を蝕むものだとは思いもしなかった。
通常、新しいことが始まる時は期待にワクワクするものだが、そうならないのは単に年齢を重ねたからだけの問題ではなく、「棄てる」事につきまとう喪失感だった。その正体は何だろう?
14年前は子どもたちも小さかった。家にあるあらゆるモノをとにかく運び出した。それでもいろいろと処分はした。入る家が小さくなるからだ。そして今回さらに小さくなる。棄てざるを得ない。物惜しみも確かにあるが、必要だと思って集めたモノに「不要!」という烙印を押すのだ。集めたことが無意味だったと言っているようなもの。10数年費やしてきたあらゆる事が「不要!」「無意味!」と断じられてしまったような、そんな喪失感。これは心を蝕む。
だが、ここはやはり敢えて考え直す。今、棄てることが出来たのだ。生きていればこそ不要品も溜まる。それは「品」が不要になっただけのことで、自分という人間が「不要」になったこととは違う。そして不要なモノを所持しないことが今後、自分にとっても世界にとっても、きっと意味があると信じる。そういう暮らしにこれから先の時間を賭けてみる。今、そういう決断の時だったのだ、と。つまり、断捨離というより脱皮、かな(?)。
いよいよにっちもさっちも行かなくなったことがずいぶん昔にあった。そしてその場から文字通り脱出した。夜逃げほどひどくはなかったけどね。引越にはそういう側面が確かにある。だが今回は「脱出」ではなく「脱皮」だ。誰がなんと言おうと!
3月11日はもとより、その日付が近づくとテレビやラジオは一斉に「東日本大震災10年」を特集した番組になった。
わたしたちは10年という単位を一区切りにする習慣がついているから、震災も節目を迎えた感覚になる。だが今年2月13日には福島沖を震源とするあの震災の余震とみられる大きな地震が起こった。マグニチュード7.3、最大震度6強。地球のメカニズムには区切りも節目もない。
福島第一原子力発電所の爆発事故がなければ福島県の浜通りだって地元の人たちが復興に向けて動き始めていただろう。余震はたちまちあの災害を思い起こさせ、人々の心に警戒感を生む。あれほどひどいことはゴメンだが、災害が風化されてしまうのもまた困る。余震はイヤだけど必要なこともあるかも知れない。だが、原子力発電所はもうどんな事故も故障も起こってはいけない、起こしてはいけない。廃炉が何年かかろうとも、そして経費がどれだけかかろうとも、国が責任を持って担い続けなければなるまい。
税金が投入されることはイヤだというムキもあるだろう。だが、わたしたちには「原発こそコストが安い」「原発こそクリーン」という言葉を信託した責任がある。そしてその責任は残念ながら原発事故被災者/被災地にもある。「税金を使うのがイヤ」だったら、今なお原発を推進する政治家どもを信託することをまず止めるべきだ。特に、自分が原発事故被災者/被災地でないのならなおさら。せめてそうでもしなければ、ある日突然故郷を追い出された人たちが贖われることはない。そうしたからといって贖われるかどうかも自信はないのだけれど…。
わたしたちは、償いきれないことをしてしまったのだ。これまでのすべての人類と、これからのすべての人類に対して。だが、償いきれないことと償わないこととは違う。10年目に、改めて思う。
先日、町内会や様々なボランティアで世話人をしてくださっている方たちといろんな雑談をした。その中で小川町には子ども会が町内会とは別組織で存在していたが、数年前に町内会が吸収して今はひとつの組織になっていることを知らされた。理由は様々あるが、別組織でも世話をし働く人が同じだということが原因のひとつらしい。さもありなん。そしてこれは別世界の話ではなく、キリスト教界も同じ問題を抱えている。
最近頓に「SDGs(エス・デー・ジーズ)」という言葉を耳にする。ラジオなどでは1週間に亘って特集が組まれたりも
していた。「持続可能な開発目標」などと訳される。2015年9月の国連サミットで採択され、加盟193か国が2016年から2030年の15年間で達成するために掲げた目標(「Gs」つまりゴールズ)を指す。17の目標に169のターゲットがあり、さらにターゲットの下に232の指標があるらしい(詳しくは
webで)。今年はゴールまでのちょうど3分の1を迎えたわけで、そのせいで「SDGs」「SDGs」と叫ばれているのかも知れない。
サスティナブル=持続可能。町内会にしてもキリスト教界にしても組織とは究極的に持続可能であることが求められる。つくった以上、続けなければならないわけ。キリスト教界に限っていえば有り余るほど人材があったことなどほとんど経験ないわけで、担い手不足は永遠の課題。とは言えやはり戦後ブーム世代がどんどん天界に移られて深刻の度合いはさらに増してはいる。打つべき手もなかなか見いだせない。
でも、そんな経験知こそが案外今社会から求められるかも知れない。人口減少に拍車がかかり社会全体の担い手がどんどん減る中、「国」という組織、「地域」という組織をこぢんまりさせながらも持続してゆく知恵。
教会がいつまで存続可能かを真剣に問うたら(恐)…祈るしかないさぁ。
なんだかなぁな記事がインターネットに出ていた。
「リスクモンスターは2月19日、第8回「離婚したくなる亭主の仕事」の調査結果を発表した。」というもの。20~49歳の既婚女性600名を対象にインターネットで行われたらしい。
これによると「夫の仕事に対して不満がある」人は43.0%、夫の年収が低いほど妻の不満が高くなる傾向がうかがえたとか、およそ10人に1人(11.5%)が「夫の仕事が原因で離婚したい」と考え、500万円を境に離婚意識に差が出ているとか、年収別に見ると「給料が低い」は「300万円未満」では9割以上、600万円を境に給料に対する不満の割合は半数以下、年収1,000万円以上では0%だとか。思わず吹いたのが「「テレワークが少ない」という不満よりも「テレワークが多い」という不満の方が多くテレワークによって夫が家にいることに対して不満を抱えている様子が窺える」だって。
これが何を示そうとしているのだろうか。アンケートの結果だけが記されているわけで、では何が問題でどうすれば解決できるかは示されない。政策で既婚男性が皆最低年収600万以上になるようにすれば解決なのか、年収がどれだけあってもテレワークで家にいるだけで問題になることを「Withコロナ」の中どう解決するのか、出来るのかもわからない。
一方これとは真逆に見える「孤独・孤立問題」で内閣府に対策室が設けられたという。孤独は人格に大きく関わる事柄だと思うから単に善悪で判断してはならない気がするが、孤立は文字通りそこにさしのべるべき手がないもしくは見えていない事が問題なのだろうから、確かに政策的課題ではある。単純に人と人とが一緒に暮らしていれば良いということではどうやらなさそうだというのが、先のアンケートから読み取るべき事柄かも。
やはりコロナが問うたのは「「人」として生きること、とは」だったのだ。