それは不思議な光景だった。
幹線道路は車の赤いテールランプが延々と連なって止まっている。ブロックによっては信号機が停電で効かなくなっている。その車の列の横をまるで満員電車のように人の列が動く。歩道が溢れるばかりの人・人・人。仕事場から家へ向かう帰宅難民の行列だった。
わたしはちょうど横浜からの帰り、たまたま高速道路ではなく一般道を走って、新子安付近で大黒埠頭前の渋滞に引っかかっていた。強い風に煽られるように車が揺れ始めたが、街路樹に風の影響が感じられないなぁ、などと思っているうちに揺れ方がひどくなって、地震だと気づいた。ナビをNHKテレビに切り替えると、速報が流れ出した。
幼稚園に帰り着くと、預かり保育の子どもたちが防災頭巾をかぶって園庭に避難している。最初の地震はさすがにひどかったらしいが、以後は部屋に戻ったり園庭に避難したりを繰り返した。我が家も少しずつ学校や職場から戻りはじめ、園庭でしばしみんなと避難していた。
やがて、電車が完全に止まっていて復旧の見込みがないことがわかり、遠方から通ってきている職員は幼稚園で開通まで待つことに決め、我が家の寝袋や布団・毛布をかき集めてその準備をした。職員の家族も幼稚園を頼りにやってきたり、ここで待ち合わせてそれぞれ帰ったりと、さながら小さな避難所になった。
横浜でビルの壁が崩れる(わたしはそのビルの付近についさっきまでいたのだ)などの被害はあったようだが、特に幼稚園はほぼ問題なし。それなのに難民にならざるを得ないのが「都市」の大きな問題なのだと改めて思った。
阪神・淡路の経験が活かされるようにと願う。そしてあれ以後の進歩に見合う国であるように、と。あの不思議な光景を心に刻もう。