経団連の米倉弘昌会長がまたやってくれた。「
「ベース電源」の中心的役割を担ってきた原子力発電を地元の理解を得たうえで再稼働すべき」だと。
日本の支配層は、どうやら時の徴を見ていない。見ることが出来ない、あるいは見ることが許されない、と言うべきか。
仮に福島第一が事故を起こさなかったとしても、増え続ける放射性廃棄物を無害化する技術を持たない人類は、それをただただ無責任に未来世代へ押しつけることしかしないではないか。ビジネスチャンスにめざといのが彼らなのだから、いまこそ、放射性廃棄物の無毒化に取り組んだらいいではないか。世界中にビジネスチャンスが転がっている。開発した企業の千年王国も夢ではないだろうに。だが、それをしない。なぜか。出来ないからだ。だから彼らは暴走を続けようという。行けるところまで、ぎりぎりのところまで突き進もう。あとは後で考えようというのだ。
そんなかけ声に、われわれは本気で従うのか。
先日福島第一の廃炉に向けたタイムテーブルが発表された。更地に戻すのに30年以上という。それはそうだろう。だが、そのニュースを、夕食を囲んだ息子と見ていた。この5年生が、目の前にいる父親の年になっても、恐らく更地になった“あの”場所に人が住むことは出来ないだろう。目の前の5年生が働き盛りを過ぎるまで待っても、“その時”は来ない。その更に息子が“その”年を迎えた時、いったい“あの”場所はどうなっているのだろう。今でさえ、そんな寂寥とした風景がいとも簡単に目に浮かんでくるのに、その危険を更に増やそうというその神経が理解できない。そりゃ米倉さんは“あの”場所が更地になる前に昇天されるだろうけどさ。
500年に一度とは、50基の原発が10年運転したら一回起こるということ。もう四巡りしてしまった今、更にそれを増やす愚。