2013年9月、カードがひっくり返されると「TOKYO2020」と書かれてあった。瞬間会場に詰めかけた招致委員たちが雄叫びを上げた。あちこちで「7年後」を空想したことだったろう。
その僅か2年後、2520億円という数字が人々を驚かせている。いや実際はそれほどかけても完成するかどうかアヤシイらしいのだが。
近年オリンピックが開催される度に、あるいはサッカーワールドカップが開催される度に、そのメインスタジアム工事の進捗状況が話題になった。大概が「工事が間に合うかどうか」に焦点が当てられていた。開催国の国民性などが結果として工事の遅れを呼んでいると度々耳にさせられてきた。その度にその国の方々を低評価し、それが定着していく自分を感じていた。
ところがだ、我が国でもそうなるようだ。間に合うかどうかアヤシイだけでなく、そもそも建てられるのかどうかさえアヤシイ。あのど派手なイメージ画像は世界中を既に駆け巡っている。その通り建設すれば一体どれだけ費用がかさむか分からないというので、泣く泣く(?)縮小したイメージも定着しているではないか。もはや国の威信をかけたぎりぎりのところまで来てしまっている…というのが無責任推進派の言い分のようだ。
「東京原発」という第一級の娯楽映画がある。その中で国家官僚と都知事との電話でのやりとりにこんな会話がある。「(知事)責任者は誰だ」「(官僚)何言ってるんですか。国のやることで責任者なんているわけないでしょう」。シュールな会話だが、ひょっとしてシュールではなくリアリズムなのかも知れないと思えてくる。
他国のメインスタジアムより3〜5倍もかかる超高額な遊び場、しかも存在し続けるだけで無数の費用を喰い続ける。これはもはや景気浮揚策ではなく国家存亡策。でも結局、やるんだろうなぁ。