「世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。」。8月9日、長崎市の田上市長は世界に向けて
口を開いた。「ノーモア ヒバクシャ」という言葉は永久に核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したもだ、と。
山口県の教会で働き始めたその年の8月9日は長崎だった。佐世保から長崎に向かう車の中で記念式典の様子を聞きながら、暑い暑い午後長崎市に入った。広島はそれこそお隣の県である以上に様々な集会や会議で何度も何度も訪れたが、やはり8月6日にその場に立つことは特別だった。
バーチャルリアリティやAIの進歩など、世界はこれまでとは全く異なった方向へと急速に発展している。それらの進歩は、悪くすれば「行った気になる」「見た気になる」「知った気になる」には充分だが、その空気や雰囲気、つまり「気」を感じるには、やはりそこに現実に「いる」ことには敵わない。
その日・その時に・その場に。それが出来るならやってみることだ。やりたくても出来ないことはたくさんある。だが、もしそこに「可能」なことがあるなら、やってみる以上に得られるものはない。今現に川崎にいてその日に広島や長崎に立つことは不可能ではないが可能とも言い切れない。だが、それが出来たときがわたしの人生のなかに確かにあったことは大切なことだった。世界のリーダーにもそれぞれ事情はあるだろうが、やはりその日にその場に立って欲しいと思う。実体験からも、強く。
ところで、広島平和祈念式典で安倍総理大臣は「あの悲惨な体験の「記憶」を、世代や国境を越えて、人類が共有する「記憶」として継承していかなければなりません。」と
語った。あれだけ国会で「記憶がない」を繰り返す人たちの頂点に立つ彼が「「記憶」として継承していかなければなりません」と繰り返しても、まこと信頼できないな。あなたたちの「記憶」ほど不確かなモノはない。