「応急処置のさなか、場内アナウンスを担当していた行司が「女性は土俵から降りてください」と複数回アナウンスを行いました。行司が動転して呼びかけたものでしたが、人命にかかわる状況には不適切な対応でした。」。人名か伝統かと騒動になっている大相撲巡業を巡って4日に出された八角理事長の
コメントの一部。「若い行事が動転して行った」ことが騒動の原因だろうか。
この騒動が流れた時、わたしの頭の中に浮かんだのは聖書のなかの一場面だった。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。」(
マルコ2:27)。イエスの時代、何より大事な決まり事の一つが安息日規定だったという。その禁を破ったイエスを人々は責め立てるのだが、イエスは「優先するべきは何か」と問う。その状況が2千年過ぎた今日でもそのまま残っているということなのだろう。
「優先するべきは何か」という問いは、常に現場でこそ問い続けられ、問い直され続けなければならない。現場とはそういうものだ。相撲協会に限ったことではない。そして、問われ続けることには意味がある。だから「若い行事のせい」なのではない。ことの前面に本体(相撲協会など)が立ち続けることが大事だったのではないか。何かに誰かに転嫁するのではなく。
尤も、伝統というものも厄介だ。そもそも何事かを「伝統だ」と言い切る根拠は、考えている以上に希薄であることが多い。「明治神宮の杜を見て「伝統と格式」を感じる人がいるだろう。だがわたしはそれが造られていることをこの目で見ている。伝統なんてそんなものだ」と、住井すゑさんが講演で語っていた。大相撲が国技だというのも「国技館」と命名した建物で興行されているかららしいし。ほとんど「信仰」と同じようなものだな。「伝統だ」と信じられるかどうかなのか。
問われ続けるのは苦しいが、そこに立つことには意味があると信じよう。