虐待の末に死んでしまった5歳の女の子がノートに綴った「反省文」。いたたまれない思いに苛まれる。
園長は子どもたちからよくお手紙をもらう。覚えたての字で言葉を伝える喜びがあふれ出ているお手紙だ。判別不能だったり文字がひっくり返っていたり、読むわたしの想像力が試されたりする。どんなお手紙でも、そこには伝えたい喜びが詰まっている。
だが、5歳の女の子がそれこそ覚えたての文字で綴ったのは「反省文」だった。「じぶんからきょうよりか もっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるしてゆるしてください」。
おそらく行政が児童相談所の体制強化とか、取り組みの強化とかを言い出すだろうし、それ以外に持って行き場はないだろうという思いもある。だが、たとえどれだけ窓口を広げても、あるいは今回の容疑者をどれだけあしざまに糾弾したとしても、それでこんな悲しい出来事が今後は減るだろうという楽観的な思いにはなれない。なぜか。自分の中にトゲを見るからだ。
人を思いどおりに動かしたい。思いどおりに動かなければ腹が立つ。時には手を挙げる。「あなたのために」「良かれと思って」とトゲに被せてあまりある動機。児童相談所はいわば対症療法でしかない。本当は一人ひとりの心の中にあるトゲとどう向き合ってゆけるかが問題なのだが、そしてそれはわかっているのだが、だからこそ、解決の糸口が見当たらない。それが楽観的になれない原因だ。
幼稚園だって、それぞれのご家庭の「躾」の領域に踏み込むことは出来ない。体制強化も難しい。相談があれば、でしか動けないのだ。だから、「別の道があるよ」「もっと力を抜いていいんじゃない」という提案を精一杯示してゆくしかないのかもしれない。