神学生たちとの「キリスト教概論」の授業が峠を越えた。
授業に「峠」とは不思議な表現だと自分でも思う。だが、あるテーマの時間が過ぎると確かにそういう感覚になる。そのテーマは「歴史」。わたし自身がもっとも不得意とする分野。だから、おそらくそれほどの自覚はないけれども緊張しているのだろう。そこを通過するとあとは下り坂。
歴史を辿ったら当然現代の諸課題に向かい合う。それはこれまで以上に学生たちとの討論の時間になる。テーマは「キリスト教に未来はあるか?」。
歴史的な必然を経て今世界のキリスト教の中心はヨーロッパやアメリカではなくアフリカや中南米という時代。しかも欧米からの直輸入ではなく、現地の人たちの課題に現地の人たちが主導権を持って取り組み始めたときに、キリスト教が幅広く受容され、その結果世界の中心になっている。どれだけそこにある課題としっかり向かい合うかということが教会の使命であることを、それは示していると思われる。
5月半ばから、個人的にも社会的にもとても重たい課題と向かい合うことが一気に増えた。頭の中で考えがまとまるどころか、どんどん散らされて集中力も欠くような状態だ。それでも予定されていた事柄は確実に近づいてくるし、時間はどんどん限られまた迫られる。
何も特別なことではなく誰でもそういうところに追い込まれてはいるのだが、こうやって小さな文章を毎週書くという作業を続けていると、書けないときや書きにくいときがあって、書けないという事実に直面して初めて、「あぁ、気持ちが追い込まれているのだなぁ」なんて判ったりする。
しかし同時に、追い込まれているということが、この社会で生きていくキリスト者としての使命なのかも知れないのだ。そこにある課題としっかり向かい合う。それなしにパラダイスはおとずれないということか。