「持続可能性」ということがいろんな場所で言われるようになった。「システムがその多様性と生産性を期限なく継続できる能力」などと一般的には用いられるのだが、最近では企業活動が維持・持続できるかどうかという意味でも用いられる。狭義でのつもりだが、本来の意味ではない。
だが、その本来の意味ではない用い方で、キリスト教会を考える場面にちょくちょく遭遇する。日本におけるキリスト教会、それも例えば日本基督教団の教会が、現状を維持し、活動を続けられるかどうか、というような問いが立てられる場面だ。
教会という社会的な組織が活動を持続するために何が必要かは、それが宗教組織であれ何であれ答えは単純だ。維持するための経済が満たされるかどうか、おそらくそれだけだ。だからそれを満たすためには二つの道しかない。一つは会員を増やすこと、もう一つは一人あたりの納入金額を増やすこと。味も素っ気もないが、それに尽きる。そのために、例えば教会同士を合併させるとか、切り捨てるとか、むしろ社会の常識に教会も(遅まきながら)見習おうというような方向が示されたりする。おおっぴらに「献金増やしてね」とか「小規模教会は切り捨てね」とか言い出さないだけで、結局それ以外ないという袋小路に行き着いている。
だけど本当にそれでこの国のキリスト教が(というかこの日本基督教団が)立ち直るのだろうか。組織の常識はわかるけど、キリスト教はそうじゃない道、別の道を見いだせる、くらい啖呵を切っていいんじゃない?。
たとえは悪いが、悪名高きガン細胞だって巣くっている人間が死んでしまえば一緒に滅ぶ。この国がもはやこれまでとなりそうな今、そしてその進め方に限りなく寄り添っているこの日本基督教団が、我ひとり生き残ろうったってそれは都合が良すぎる。別の道に行くつもりなら、やるべきことはある。