これを書いているのは、事情があって4月30日の朝です。今日は朝から「改元」だ「退位」だ「平成最後」だと、テレビは息つく間もなく長々とそんな特集が組まれています。おそらく今夜遅くまで、このマスコミによるお祭り騒ぎと、それに操作される人たちの乱痴気が続くのでしょう。
元号は使おうが使うまいが、その人の好きにすれば良い。西暦だって言ってみればキリスト教的価値観の押しつけに過ぎないわけで、ただ世界的に便利だという点では「グローバルスタンダード」であるだけ。その成り立ちや使われ方は、元号や天皇家にまつわる神話やファンタジーと大差ない。そしてやはり「キリスト」の名によって(それが大意とか御心とかの議論は脇に置いてだけどね)行われてきた凄まじい文化破壊や戦争の数々も記憶した上で、「やっぱりグローバルスタンダードだよね」という選択なのだと自己規定したい。「西暦を使えば全て解決」みたいな単純な問題ではない。
今回の騒ぎも、本当なら「騒ぎ」にするべきではなかったと思う。「昭和」から「平成」へは天皇の危篤から死去を経てのことだったから、当然のようにその準備は隠密理に行われた。死去と同時に次へ繋ぐのだから時間も限られていた。それでも天皇の病状は「下血量」という、なんだかなぁの発表でみんなに知らされていたのだから、代替わりだとか改元だとか国のありようとしての天皇制だとかを考えるチャンスはそれなりにあったし、そうしてきた。今回は「死去」を伴わないわけだから、もっとおおっぴらに時間をたっぷり使って、国のありようを考えられたはずだ。だが、お祭り騒ぎに誘導されてしまった。「10連休」にばかり目が行って、「変化」の楽しみを追うのみ。教会のプログラムでさえ「平成最後の…」などと呼んでしまう始末。嗚呼。
次は良くて30年後、その次はおそらく10年。しっかり考えるチャンスは続々ある。ちゃんと忘れずにいようよね、みんな!