「国や文化や歴史、違いはたくさんあるけれど、大切なもの、大切な人を思う気持ちは同じです。(略)相手を知り、違いを理解しようと努力すること。自分の周りを平和にすることは、私たち子どもにもできることです。」
この6日広島で行われた平和祈念式典での「
平和への誓い」で子ども代表が語った言葉。このストレートな物言いは、曇った心しか持ち得ないわたしを(大人たちを)、たいせつなことへと目ざめさせる。
「みんなの学校」という
映画に登場したセイシロウ君は卒業式で後輩たちに「一番大切なことは『平和』です。平和にするのは簡単です。隣の人を大切にしようとみんなが思ったら、一瞬で世界は平和になります。」と語ったらしい。その話しを大阪・大空小学校の元校長木村泰子さんから聞きながら、今年の「平和への誓い」の言葉を思い起こしていた。そして二人の子ども代表に、こう語りかけていた。「『私たち子どもにもできること』っていうのはたぶん間違いだよ。大人にはできそうもない。むしろ『私たち子ども=が=できること』なんだよ」と。
平和の少女像が展示された愛知トリエンナーレの「表現の不自由展・その後」は「安全・安心な運営が難しくなる」と3日で中止となった。「日本人の心を踏みにじるようなものだ」と名古屋市長が発言したとも
伝えられた。「俺の心を踏みにじった」ということならその言葉も意味がある。でもそうではないのだ。違いを理解しようという思いはそこにはない。ちらつかせているのは「力」だ。そしてそのちらつかせかたは観ていて嫌悪感しか呼び覚まさない。
「平和をつくり出すものは幸い」。イェスの物言いもずいぶんとストレートだ。代々の教会はこのストレートな言葉にさまざまな「解説」と称する言葉を付け加え、行動しない・起こさないことを正当化してきた。そしてその方が都合が良い思いに取り憑かれたわたしは…。