神奈川教区が主催する「地の塩、世の光としての教会──『戦責告白』40周年を覚える神奈川教区集会──」が17日(土)清水ヶ丘教会で開かれた。57教会145名の出席であった。
開会礼拝で説教に立った関田寛雄牧師はマタイ福音書のペトロを教会の礎とする箇所を引いて、「しばしばキリストの志を妨げてきた罪深いペトロが教会の礎として選ばれているとはどういうことか。それこそまさに教会の姿ではないか。教会の原点には悔改めとキリストの赦しがある。罪赦されたペトロの上に立って教会は歴史を歩んで来た。だからこそ、罪深い過去を見つめなければならない」と話された。この国においても教会は罪深い過去を持っている。ひょっとすると、それを「過去」とは呼べないかも知れない。「現在」に繋がって、断ち切れていないのかも知れない。
「戦後レジームの脱却」を訴えた前総理は自らが政権から脱却してしまった。過去をひとからげにして葬り去り、関知しようとしない点では教会、特に日本基督教団も「戦前レジーム」を脱却しようとしたのだろう。目の前にはついこの間まで敵性宗教とされ一晩にしてブームにしてくれた大衆がいた。「臭いモノには蓋」「ふり返るより前進」と、勇ましく号令をかけて戦後日本を救霊しようと躍起になった。その陰で、体制は戦前から全く変わらずに引き継がれ、戦後の新しい流れをつくり出そうとした。この国も教団も大差ない。つくづくわたしたちは「日本の」基督教団なのだなぁ。
歴史を学ぶということは、関田牧師の言うとおり自らの原点を、しかも決して栄光ではない、それとはかけ離れた原点を見つめることである。厳しく辛いことではある。だが、それを見ずして進むべき方向は見つからない。十字架を背負う以外には。