ペンテコステの出来事は、バベルの塔の出来事の神による和解であると考えられている。バベルの塔の出来事とは、人が神の領域に達するために相諮って高い塔を建造しようとした出来事だった。神はその謀を打ち砕くために、人々の言葉を通じなくさせた。多種多様な言語が存在する現実は、バベルの塔の出来事から見れば、神の怒りであり神の罰であった。ところが、神の霊が弟子たちの上に留まると、彼らはあらゆる地域の言葉で神の出来事を語り出した。それはまるで新しい酒に酔った悪ふざけにも見えたが、しかし彼らの騒音の中に自分の国の言葉を聞き出した人々にとって、それは驚くべき魅力的な出来事として記憶された。
ペンテコステの出来事は実にさまざまな音で彩られている。酒に酔った乱痴気騒ぎのような、あるいは天変地異が起こったかのような騒音を伴った出来事だった。しかしそれこそがまさに神の出来事であったのだ。
最近、日本基督教団は「一致」という言葉で異様に騒乱している。「違法聖餐が日本基督教団の“一致”を阻む」ということらしい。英語では“一致”を表すために「agreement」と「harmony」という、一見すると全く対立するかのようなことばが用いられる。前者は日本語では「合致」、後者は「協調」とでも訳すだろうか。騒音に彩られた聖霊の出来事=ペンテコステから考えれば、聖霊がもたらす一致はまさに「harmony」である。
ちなみに、「一致と再編」を銘打った違法聖餐廃絶キャンペーンは、今後「一致」のための神学研究やそれに基づく対応策を検討するらしい。どうやら「はっきりした相違にもかかわらず調和」(harmony)させる聖霊の力を信じないようだ。彼らが求めているのはむしろ「solidarity」。窮屈になったもんだ。
そう言えば聖書には「聖霊の働きを侮辱する者は呪われる」とあったように記憶するのだが…。ま、祝祭日に免じて、それは問わないでおこう。