8月6日、秋葉広島市長が読み上げた
平和宣言には「核兵器は廃絶されることにだけ意味がある」とあった。いわゆる平和記念式典(正式名称は「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)だから当然言及されているのは核兵器なのだが、わたしは「原子力」もまた「廃絶されるべきもの」だと思う。
環境をテーマにサミットが開かれるほど、CO2問題は今ビジネスになる。「環境サミット」という表題がわたしたちにイメージさせるもの──たとえば自然エネルギーへの世界を挙げた方向転換など──とはほど遠い議題に終始したのもそのためだろう。揚げ句、日本のテレビにはカッパのアニメが登場し「発電中にCO2を排出しない」クリーンな原発が盛んに謳われている。では「原発=クリーン」というイメージが定着したのかと問えば、決してそうではないのだろう。佐世保と横須賀で米軍の原子力潜水艦が
放射能漏れ事故を起こしたこと、その報告が後手に回ったこと、相も変わらず「微量で環境への影響なし=安全」をくり返す公報に、市民の不安はむしろ増大している。「安全」をくり返すほどに「不安」が膨らむのだ。
この8日、横須賀にある
GNF-Jが7月9日に次いで2度目の
ウラン飛散・被曝事故を起こした。こともあろうに8月9日の事故直後には福島県の小学生とその親たちが工場見学をしたという。確かに同社のホームページを見ると積極的に工場見学を受け入れている様子がわかる。その会社にして危機意識はこの程度。ここにも市民感覚からの乖離があるのだろうか。
これらの感情から言えば、原子力は廃絶されることにだけ意味がある。核兵器はその筆頭であるがしかしそれだけではない。原子力に頼らない生活を真剣に考えなければならない。「電気を使っているくせに」などと直情的な反応をしている場合ではない。頼らないプロセス、廃絶に向けたプロセスの構築に、あらゆる叡知を結集してほしいと思う。