前まぶね教会牧師、中原眞澄さんのお連れあいが亡くなったという連絡が入って、昨日夜、まぶね教会で行われた前夜式に参列した。
お連れ合いのよし子さんとはこの時が初めての対面だった。式次第の略歴には「小学校5年の春から、右足に障害が出始める。」とあった。そして「出始める」の言葉通り、その後の30年以上に亘って様々な腫瘍と闘うことになる。脊髄腫瘍、後腹膜腫瘍、脳腫瘍、聴神経腫瘍…、最期の一週間は食べることも飲むこともできなかったという。
いつ召されてもおかしくないと言われる中で、しかし彼女は「わたしには夢もあるし希望だってある」と眞澄さんに語ったという。中原牧師は「こういう状況の中で、夢を語らせ、希望を語らせるものこそ『神の栄光』そのものではないか」と、その式辞の中で語った。亡骸はもうこれ以上そぎ落とすところがないほど。いわば最期の最期までいのちを生き切った人の姿だった。
友人の一人はよし子さんがただの純粋ないい人だけだったら、彼女を襲った苦しみがとうに彼女を奪っていったに違いない、と話された。芯の強さや負けず嫌いが彼女をその最期の瞬間まで生かしたのだろう、と。生前の彼女を全く知らない者にとっても、そうかもしれないと思わせるに十分だった。
そのすべてが神の導きだと知っているつもりでも、よし子さんのようなこともあれば、逆に金子さんのように突然のこともあるのだ。いのちとは、まさに人間の手ではどうすることもできないものだと改めて思わされる。かといって、その時がどの一瞬に来ても良いように、一瞬一瞬をまっとうに生きるなんていうことも、考えただけで気が遠くなってめげる。
いのちを巡る問題は、マジで解決のつかない問題なのかもしれない。だからこそ、それは「信仰」の領域なのだろう。そして、信じて生きることのできるありがたさを、今回もまた知らされることになった。