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No.155 僕らは“神”でも“真理”でもない

 神奈川教区宣教部委員会が主催する「宣教を考える会」が開かれた。教団宣教方策会議を受けて「聖餐について」語り合おうと呼びかけられたものだ。折から紅葉坂教会の北村牧師に戒規が発令され、北村牧師は常議員会に上告中という状況の中で開かれた教団宣教方策会議であり、教区宣教を考える会だったのだが、今ひとつ狙ったような話し合いにならないのはなぜだろう。
 それは真理に関わる問題だからではないか。──「真理問題」ではない。そうではなく自分が真理だと思っていることに関わる問題だ。だから反対の立場や異なった立場の話を聞く必要はないし、仮に必要があるとしたら反対者を回心させることの他ないのだ。だから話し合いにならない。
 およそ自分が信じていること、行っていることに絶対の自信がある。「ひょっとしたら間違っているのではないか」などと弱気なことは微塵も考えない。自分が糺されたり気づきを与えられたりはしない。その必要がない。そういう場合、他の立場の話をどれだけ聞いても何も生み出しはしない。「聖餐」に関する事柄について、謙虚に聞くなどという次元ではないのだ。
 発せられる言葉を2時間以上聞いていて、だんだんに滑稽な思いにされてしまった。周囲の人、参加者のほとんどがまじめにやりとりすればする程、わたしは自分がその場から浮いていることを感じさせられる。浮いている自分を滑稽に思うし、口角泡を飛ばして議論する人たちも滑稽に見える。
 どれほど「真理だ」と確信しても、それが真理かどうかその人には永遠にわかり得ない。なぜならそれこそ神の領域だからだ。真理問題ではなく、真理に関わる問題でしかないのはそこだ。だが、だからこそそれぞれが、信じている道を歩み続ける以外にない。ただ、自分とは違う立場の者も、同じように自分の道を歩んでいるのだと思えるかどうか。思えないからこそ排除し、切り捨てる。何かを振りかざすその姿は滑稽で、みっともないものだが。