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No.160 一色というキモチ悪さ

 日本基督教団出版局でつくっている「教師の友」に、「今月の礼拝」という連載をもって3年目。ついこの間7〜9月分を入稿したので、3年目も半分終わったところ。
 「教師の友」との関わりは、月刊誌だった時分からもう四半世紀になる。最初はまだ神学生だった。教会学校との関わりも30年。その大半を、地方の小規模教会の教会学校という現場で過ごしてきたのだ。自分が所属したところやその周辺で、奉仕する者が1〜2人、在籍生徒も一桁が良い方、閉鎖したところや「合同礼拝」という形に変えたところなども多かった。
 そういう現場体験を持つ者が執筆するのだから、当然地方で自信をなくしながらも奉仕している人たちを想定した物言いとなるのだが、時折編集部や委員会の方々と見解が異なることがある。実は今回も最終段階で意見の食い違いが起こり、未だに産みの苦しみの最中にいる。
 こういう経験を通して考えさせられるのは、「相手の立場」に立つことのほぼ不可能性ということ。もちろんわたしたちは善意の集団だろうから、そうではない一般的な方々よりは相手の立場に立とうという意志があるだろう。それでも、やはり知らなかったら、体験したことがなかったら、想像するための断片さえもなかったら、その立場に立つことなど不可能だ。
 問題は、どちらが善でどちらが悪か、なんていうほど単純ではないこと。立脚する場が違うのであれば、そこから導き出される方法論や結論が異なるのはいわば当たりまえ。精一杯想像力を働かせても、理解できないことの方が多いのが現実なのだ。大事なのは、「違う」「異なる」「できない」という現実から逃れたり、一方的に断罪したりしないことだろう。全国津々浦々を一つ色に染める、一つのパターンしか許さない・認めないなど愚の骨頂だ。
 なのに何と我がキョーダンは愚の骨頂を極めようとしているらしい。ハァ。