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No.166 結局、変わらないのだな

エッセイ「多摩川べりから」
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 結局この国は、太平洋戦争後一貫して、米国に自国を売り続けることで自らを維持してきた政治風土を脱却できなかった。「結局」などと結論じみたことを言うのは少し早すぎるだろうか。だが、たとえこの夏の参議院選挙で民意が明確になったとしても、ではいったい誰が、どこが、この国の政治を担うか考えてみたら、これは早々に結論づけたくもなろうというもの。  鳩山政権は、そのスタート時に旧政権に対して「対米追随」と言ってきた。それは「新政権はそうではない」という意味だったはずだ。「最低でも県外」などという言葉に期待を持ったその大本は、「対米追随」ではないこの国の姿に、多少なりとも期待を抱いたからだった。一年で政権を放り出した安倍首相は当時「戦後レジームの脱却」と語ったが、戦後に押しつけられてきたもの以上に、戦後の保身を謀った政治体制そのものこそ脱却されるべきレジームだった。民主党党首の言葉に、その曙光が見えた気がしたのだ。  だが実際は、特に普天間移設問題については、「米国追随」どころか「米国丸呑み」決着だという。首相という実務を経験すればするほど、「抑止力」がわかったと言うが、何をどう抑止する力なのか。その姿を見ていると、危うい国際情勢に対する一定の力としてではなく、政治的駆け引きに於ける抑止力でしかないように思えてくる。  一方、ここを機とばかり強気の発言を目立たせる右よりのセンセ方も、ではどれほどの確信を持って「日米同盟」などという言葉を吐いておられるのか。自国民の感情よりも信頼できる他国(ひょっとして宗主国か)らしいのだが…。鳩山首相に対して米国と交渉しないと評価する面々は、一体どれだけ自国民の利益のために米国と正面から交渉しただろうか。売り続けてきただけなのではないのか。  わたしたちの政治不信の根は深いのだ。読み違えてもらっては困る。
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