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No.175 サーカス

 安岡章太郎の「サアカスの馬」という小品がある。子どもの頃に学校の教科書にでも載っていたのだろうか、細部はともかく話自体を覚えていて今でも時々思い起こすことがある。
 何の取り柄もない少年が、学校の窓から見えるサーカスの小屋の裏に繋がれているやせ馬に自己同化する話。馬は恐ろしく背骨が曲がっていて、少年はもう使い物にならない馬なのだと感じる。自分の影を見つめながら。だが、あにはからんやその馬はサーカス団の花形スターだったとは。
 この少年は中学生だという。口癖が「まぁいいや、どうだって」。ほとんど自暴自棄のような自分の心が、サーカスの馬に投影される。繋がれた馬の貧相ぶりがその思いに拍車をかけるのだろう。自分も少年時代にこの話に心惹かれていった背後に、鬱屈とした思いがあった。長じて今、自分の子どもがその世代を生きている。自分の中学生時代に比したら──そもそも比しようがないほど隔世の感があるのだが──豊かさを欲しいまま享受するかのような娘たちだ。しかしたぶん彼女たちにも鬱屈とした思いはあるに違いない。
 不思議なことにこの話を想う時、心の中にはいつも、暗い深淵に引きずり込まれるような、容赦ない暗闇が浮かぶ。だからかもしれないのだが、わたしにはどうしても「サーカス」の華やかさの、一枚裏が気にかかるようだ。何かにつけ「裏」を読みたがる性格は、この学習によってもたらされたのか、はたまた本来あったものがこの教材によっていっそう明確にさせられたのか。定かではないが、非常に気にかかる小品なのだ。
 今、ボリショイサーカス横浜公演の会場にいて、ハラハラドキドキしながら、わたしはそんなことを思い出していたのだ。華やかで、楽しければ楽しいほど、ステージが終わってしまうと、切ないほど悲しくなる。サーカスは不思議な舞台だ。そんなことを感じる自分の心はさらにいっそう不思議なのだが。