ようこそ、川崎教会へ

No.191 時間が「かかる」ことの意味

エッセイ「多摩川べりから」
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 キ保連の園長研修会で、久々に倉敷教会を訪ねた。  防府にいた頃、山口県は西中国教区に属し、岡山県・鳥取県で構成される東中国教区とは様々な集会や委員会でよく顔を合わせていた。倉敷教会はそんな場合の会場教会として度々お世話になった。しかし、山口からは車で向かうことが多く、電車を使ったのは今回が初めてだった。初日は時間に余裕もあったので、初めて(!?)「倉敷美観地区」を歩くことができた。  教会関係の集会には職責上幾度も出席したが、会議はもとより、例えば「修養会」と名付けられたものなども時間の制約が多く、プログラムが朝から晩までびっしりで、せっかく訪れた町も、宿と会場・教会を往復するだけで終わってしまうことがある。だが、本当は教会も「その町・その街」に建てられているのだ。そこの空気を感じないままでどうして宣教が語れようか。  奥羽教区(青森・秋田・岩手)ではかつて、教区総会を、選挙のある年は各地区持ち回りで二泊、選挙のない年は盛岡で一泊で行われてきた。しかしある頃から主に経済的・時間的理由で毎年盛岡で行われるようになってしまった。その頃からその地の教会への関心が薄っぺらになってきた気がしてならなかった。どんな場所にあって、どんな空気を吸っているのか。「理解する」とは、そういうことから始まるのだ。例えば盛岡まで5時間も6時間もかかるところから必ずやって来るだけでは、相手の心やそのリスクを知ることはできない。そこまで出かけていき、「時間がかかる」「遠い」を実感すれば、ほんの少しは相手の気持ちもわかろうというもの。そういう小さなことから「違い」を肌で感じ、「違い」を尊重することを学ぶ。だが、利便性が追求され、経済がすべての尺度となるところからは「違いの尊重」など望めまい。神奈川教区の教区総会は、なんと土曜日の一日だ。  バーチャル機器に囲まれながら、そんなことを考えてみた。
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