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No.192 いい知れぬ闇を感じた日

エッセイ「多摩川べりから」
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 裁判員裁判で初の「死刑」判決が出された。これで一種の歯止めが取り払われた格好になり、裁判員裁判では死刑判決が続くだろうなどと素人判断を下していたが、なんとそれが当たってしまった。しかも未成年者に対して。  この判決を下した裁判員の一人が、テレビに顔を出して記者たちの質問に答えていた。顔を出した理由は、今回のグループも、これに続くたくさんの裁判員たちにも、下を向いてほしくないからだ、という。  確かに、法律に基づいて裁判員制度は始まった。ではその結果、一人の人間が一生の間に裁判に関わる確率はどれくらいだろうか。その確率の中で、死刑判決やむなしという判断になる確率はさらにどれくらいだろうか。はっきりしたことはわからないが、そこでの結果を一生引きずらなくても良いように始めから低い確率で用意されているのだろう。そこでの判決について責任を負うかどうかは裁判員のいわば「良心」にのみ関わることなのであって、裁判員制度はそこまでの要求はしていないだろう。そのように、一方は幾重にも守られた中で死刑の判決が出されるのだ。だがそれは単に合法的な殺人に他ならない。一般人に合法殺人をも強要するのが裁判員というルールだ。  前述の方のインタビューの一部をテレビで観た。心がけたことは自分が被害者の家族・親族だったら、という思いだったという。それがいわば「一般的な感情」なのだろう。制度の開始にはそもそもこういうことが望まれていたようにも思える。だが、一般人は常に被害者ではありえない。一般人が加害者なのだから。裁判であばかれるのは「真実」、そして裁判でさばかれるのはその「真実」が罪にあたるかどうか、だ。少なくとも「感情」の問題ではない。裁判員制度はそこを大きくはき違え、あるいは踏み越えようとして、現に踏み越え続ける道を開いてしまった。  この国の闇は、深い。
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