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No.203 子たちよ、情けない大人を許したまえ

エッセイ「多摩川べりから」
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 新入園児にとって最後の準備登園が終わった。これであとは入園式を待つのみ。尤もそれまでに準備しなければならない様々なことは、特に親たちにとってこれからが本番ではあるのだが。  入園説明会と2回の準備登園の都合3回、園長として保護者の方々にお話をする。説明会では「キリスト教保育とは何か」ということを、第1回準備登園では「待つ」ということを、そして第2回準備登園では「選択を見守る」ということを話す。特に「選択」にはたとえ子どもであっても何らかの意味があるということを信じてそれを見守っていこうと呼びかける。  そう考えるのは当然ながら背後にキリスト教があるからだ。神は理由なくわたしたちを愛される。それは命を与えられたものとしてわたしたちが出会うすべてのことを肯定してくれる愛だ。その愛に裏付けられているからこそ、わたしたちはよりよく生きようとする。御心にかなった歩みをなそうとする。よりよく生き(てい)るから愛されるのではない。それは非可逆な順序なのだ。  だが、そうではない主張に出会って私は驚いた。先の第37回教団総会には一部の議員たちに「議案ガイド」なるものが配られていたという。このガイドには一つひとつの議案に○と×が記され、解説が載せられていた。つまり採決に当たってはガイドの指示通りに動け、ということなのだ。さらに各選挙についても当選させるべき名簿が掲載されていたという。そして選挙結果がその名簿通りになったというから、このガイドは相当数配られ、そのガイドに従った者が相当数いるということだ。  与えられた命を喜んで使うのではなく、誰かに指示されたとおりに使う。それを称して全体主義と呼ぶ。大の大人が、しかも教団総会議員になるほどに各地区・教会で幅をきかせている人間が、この程度だったのだ。これを棄教と呼ばずしてどうする。彼らはもはやキリスト教徒ではない。
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