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No.211 節電は誰のため

エッセイ「多摩川べりから」
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 桜という花は、どうも人に特別な感情や感慨を抱かせるもののようだ。理由は諸説あって定かではないが、そういう花なのだ。その花がどうもわたしの心に働きかけてやまないのだ。  東京都の知事が、花見の自粛を呼びかけたという。「桜が咲いたからって、一杯飲んで歓談するような状況じゃない。少なくとも夜間、明かりをつけての花見は自粛すべきだ」。ふむ。いかにも「東京」のやりそうなことではある。この期に及んでまだ、というか、結局、「東京」にとっては今回のことは他人事に過ぎないのだな、と思った。さらにこの困った知事はこんなことまで付け加える。「戦争の時は皆、こらえてやったんだ。自分を抑えて。あの時あった日本人の連帯は美しいと思う」。  日本人の連帯は一億玉砕の道を選ばせようとした。そのどこが美しいのだ。そもそも「連帯」とは権力に対抗する者たちの使う言葉だ。それを権力者であり、権力欲の塊のような者が使えば、それは単なる強制だ。  節電はいったい誰ためにやるのだ。まさか東京で節電することが被災者のライフライン復旧に繋がるなんて考えてはいまい。全く無縁だろう。何故節電しなければならないのか、それは「東京」が巨大停電にならないために過ぎない。首都が混乱する、と。知るか。日頃からそうならない手を打っておくのが政治家のつとめだろう。東電とつるんで無為無策を垂れ流し続けて、挙げ句この期に及んで「わが身かわいさ」を脱せない。だがそれはあまりにも露骨なので、適当にオブラートにくるみ、さも「被災者のためでござい」と宣う。それがかの都知事の見識なのだ。  今必要なのは「自粛」という名の見せかけの憐憫ではないはず。もし本気なら、自分の生活を根本から改めることだろう。「あれは“東京原発”だ」と言い放った、福島の人の心が本当に伝わるならば。
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