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No.214 人の真価

エッセイ「多摩川べりから」
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 原子力発電を考えるような報道やテレビ番組が増えてきた。確かに今のような状況では取り上げるべき論点だろう。だが、見ていてもなんだかすっきりしない。いつもなんだか違和感が残る。その違和感の正体が何なのか、自分でもつかめなくてイライラする。  福島第一原発の事故を受けても、朝日新聞社のアンケート調査では原子力を使おうという意見(積極的・消極的合わせて)が56%になっているという。このアンケート回答の地域分布が良くわからない上での話だが、なんだか絶望的な数字に見えた。首都圏は例えば福島あたりに原発を持つことで、うまい汁をすすり続ける現状を維持したいに決まっている。高レベル・低レベル放射性廃棄物や、放射性物質の脅威にさらされ続け、土地を奪われ、しかも1kw/hさえも作られた電力を手にしない/できない地域に住んでいる、例えば福島県の方々の意見とは当然比較にならないお気楽さだ。  あるいは脱原発でこの夏の電力需要を乗り切れるかをテーマにする番組もある。原発と対置させられる自然エネルギーの現状を総発電量の約1%と紹介し、発電コスト高が主な原因という。だが、世界各国のエネルギー開発予算の比較を見ると2003年の統計でも全予算の70%が、核分裂原子力エネルギーの開発に当てられ、再生可能エネルギー開発には僅か4%、エネルギー貯蔵技術開発や調査分析には僅か2%(例えば米国では41%)しか割かれていない。この国家予算は当然「発電コスト」には含まれない。研究/開発に予算を割けなければ、技術コストはいつまでも高止まりし、普及を促進させることも出来ない。既定路線に乗っかるだけだった政治の貧弱がここに現れている。これでは「技術立国」と名乗るにすこしおこがましくはないか。  ムードやブームではなく、どう変われるか、自分がどれだけ変わってゆけるか、人間の真価こそが問われている時代になったのだと思いたい。
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