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No.217 ことばがいのち

エッセイ「多摩川べりから」
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 幼稚園の講演会に、福音館書店相談役の松居直先生においでいただいた。先生とは今から15年ほど前に盛岡で、キ保連奥羽部会の研修会にやはり講師としておいでいただいて以来だ。  松居さんは「読書は言葉の意味がわかっても出来ない」と仰った。もちろん言葉の意味がわかることは大切だが、本の言葉の世界から何かを感じ取らなければ読書とは言えないのだという。同志社大学時代にヨハネによる福音書の1章を、全学礼拝で朗読された時に心が動かされたという。ことばがいのち、ことばが生きる力になる。その時にことばというものの本質に出会い、そして「聴く」ということの大切さに気づかされたと仰る。  考えてみれば、教会の営みはまさに「ことば」を巡っている。ことばなしには成り立たない(尤も松居先生に依れば、人間のいのちも生活も、全ては「ことば」がなければ成り立たないようになっている、というのだが…)のだ。この場合、ことばの象徴としてわたしが考えているのは説教のことではない。むしろ聖書朗読だ。「ことばがいのち」という思考の行き着く先は、聖書のことばが語られるそこにいのちが、神が、共にいますということに他ならないではないか。では説教はどうか。  松居先生は絵本の読み聞かせについてこう語る。「読み手は、聞き手の関心に引きずられない方がよい。読みたい本を読んで聴かせればよい。聞き手は、興味なさそうで聞いているものだし、おとなしくしているからといって聞いているものでもない」。説教もそうなのではなかろうか。語り手が聖書のことばに本当に出会ったならそのことを語ればよい(出会えなかったら「出会えなかった」と語るしかないのだ)。聞き手がその説教を完成させてくれる。「俺の話を聞け!」と叫んでも意味はない。  なんだかとても励まされた。
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