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No.221 人体実験台として

エッセイ「多摩川べりから」
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 3・11から3ヶ月──つい一口にそのように言ってしまうのだが、その日数は90日と不変であっても、その意味するところ、その時間の長短は、なんと一人ひとりによって異なることだろう──。もうそんなに、あるいはまだそれだけ。わたしの中に相反する二つの感覚が湧いてくる。  もう3ヶ月。神戸で震災を経験した仲間は、震災後3ヶ月頃の自分を振り返りながら、生活が復興に向かって整えられ始めていたという。それに対して今回の3ヶ月はあまりにも落差がありすぎる、と。確かに、がれき一つとってみても、未だにうずたかく積まれたままという状況は、一体どういうことだろうかと思わざるを得ない。  まだ3ヶ月。佐賀県の玄海原発は再開に向かって動き出すのだろうか。知事は国に求めていた再開条件の大部分がクリアされたと発言した。だが、本当にそうなのだろうか。福島の事故原因は本当に津波によって重要な機能が失われたことにあるのだろうか。地震の揺れは全く問題にならなかったとの結論が先にある論法ではないのだろうか。そもそも、福島の現状は、既に総括をゆるす段階にあるのだろうか。まだ3ヶ月なのに外側で盛んに「クリアされた」という発言が出ることに、強烈な違和感を覚える。  忘れてならないのは、わたしたちは今もまだ世界で類を見ない巨大な人体実験のさなかなのだということ。政府が非難されるのは致し方ないし、ていたらくと言う他ない気もするが、では誰がこの巨大な人体実験に明快な仮説を立てられるだろうか。残念ながら聞こえてくるのは安易な楽観や根拠ない安全であって、それらはなんの解決ももたらさないことをわたしたちはこの3ヶ月で学んだのではないか。  わたしたちはおそらく、一つひとつの出来事に振り回され、じたばたし、戸惑うことが今必要なのだ。実験台なのだから。
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