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No.235 立てられている意味

 先日何気なく見ていたテレビで「日本競輪学校」の女子第一回生を取り上げていた。その過酷なトレーニングのドキュメントだ。
 競輪の名手を父に持つ二世の女子選手。なかなかスタートがうまく出来ずバランスを崩して転倒、身体に生傷が絶えない。記録会を前にした夏休み、父親から特訓を受けることになった。
 競輪選手としての娘を見て父は「全く、一つも出来ていない」と言う。取材スタッフに語ったところでは「客はカネがかかっている。だからみんな真剣だ。その真剣さに応えないと。自己満足では済まされない世界なんだ。」。
 トップ選手であれば年収二億円も夢ではないという競輪の世界。自分を追い込む過酷な訓練も、実はこの責任感との両輪だったのだ。それに気がついて、自分を追い込む訓練の意味を見出した者は、恐らくその世界で生きていけるということなのだろう。
 神学校の同窓会で、同じ教区で共に働いた大先輩が言う。「私は、いわば食い潰した状態で神学校に来た。その状態が変わらないままに学校で五年間学んだ。卒業させてもらい、生涯で一億円を稼ぐようにしてくれた学校には心から感謝している。」。同窓会としてどうやって学校を支えようか、同窓会そのものを強固にしてゆくために何をしたらよいか、そんなことを話し合っている最中に彼はこう発言した。自分が立てられている意味を見つめながらの伝道者人生だったのだろう。誠実というよりも木訥な先輩の、心がにじみ出るような発言だった。
 何にせよ、わたしたちは生かされている。大なり小なりその意味を考える時を与えられその問いに向き合って生きている。自己満足ではなく、生かされていることの意味を考えながら、その中で道を見出して歩む者でありたい。なんだか素直にそう思った。