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No.236 いのちのリスク

エッセイ「多摩川べりから」
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 先日、東京都が岩手県・宮古市などのがれきの処理を引き受けるという報道があった。今後は宮城県とも災害廃棄物の処理基本協定を結び、両県のがれき約50万トンを受け入れるという。  そして当然予想されたことだが、これに対して反対や苦情のメール・電話が29日に162件(電話129件、メール33件)、30日に283件(電話222件、メール61件)(いずれも「産経ニュース」Web版)あったという。  以前、陸前高田の薪を京都の大文字焼きで燃やす計画が、やはり苦情により中止させられたということがあった。その時は苦情の件数があまりにも少なかったのに中止したというので驚いたが、さて今回はどういう顛末となるだろうか。  もちろん放射性物質への不安は良くわかる。どの程度なら安全でどこから危険かは専門家の間でも(だからこそ、と言うべきか)議論がある。政治家もこと許容量(などあるのかは別問題だが)について責任ある発言をしない。  だが、「原子力の平和利用」という名の下、原発を推進した時点で、実は廃棄物の処理についても未定のまま出発したのではなかったか。今回は地震と津波という要因で問題が顕著になっただけではないのか。先行きを明確に出来ず、うやむやに隠していたことがもはや隠し通せない事態に直面しただけの話とも言えるではないか。  さらに言えば、首都圏の電源が福島でつくられる必然は何か。「必要性は分かるがうちの裏庭には困る」という発想がそれを推進してきたのだ。その分札びらを切ればいい、と。原子力は差別問題。この一つとっても分かる。  自分の身に降りかからなければ必死になれないのは人間の弱さなのだろう。いのちのリスクの意味を、いい機会だから真剣に考えたらいい。国の発展(!)を止めてでも、考える価値はあるだろう。
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