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No.239 カダフィー大佐殺害

エッセイ「多摩川べりから」
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 リビアでカダフィー大佐が殺されたというニュースは、いささかセンセーショナルな映像を伴って何度も繰り返し流された。血まみれで連行される映像には「撃つな!」と何度も叫ぶ大佐の様子が映し出されていた。  そしてやはり、各国はこの事件を好意的に評価した。アメリカではオバマ大統領が「リビアの人々は長く苦しい章を終え、自分たちの運命と新しい民主的なリビアを描く機会を手にした。」と言い、ドイツのメルケル首相は「ドイツはリビアの民主化と法治、国家的和解に向けた行程に寄り添い、支援する」と語った。  確かに42年に及ぶ独裁政権、暗黒政治の手法や石油利得を個人財産として様々な国で蓄財してきたことなど、国家に対する犯罪は裁かれねばならないだろう。だがどうしても違和感を禁じ得ないのは、一人の人のいのちが奪われたことを、少なくとも無関係の第三者である私たちが喜ぶという現状だ。  暗黒政治によって闇に葬られたリビア国民が、独裁政権を打ち破ったことを喜ぶのは当然だろうし、独裁政権のシンボルであった大佐を射殺することも、あるいは同情できることなのかも知れない。だがこの独裁政権は本当に第三者である国際世界にとって存在悪だったのか。むしろ世界が彼を必要としてきたのではなかったのか。  リビアにとっても、今後の国家体制を維持するために、国民の多くが武装している事実からどうやって解除へと舵を切るだろう。大佐殺害だけで理想者会がすんなりやって来るわけではないだろう。そのためにも大佐を正当に裁くという手段を敢えて手放すのだ。それ以上のウラがあるとしか思えない。  アルカイダの指導者とされるウサマ・ビンラーディン殺害のニュースも大きな違和感があった。背景が似ている。もし本当に殺害したのなら、よほど闇に葬られたい事実があったとしか言いようがない。
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