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No.251 「死」の意味、「生きる」意味

エッセイ「多摩川べりから」
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 「「神が合わせたものを、人が離してはならない」と結婚式で言われたのに、どうしてこういうことになってしまったのでしょう」。愛する妻が無言の帰宅を果たしたその時、徹さんがわたしにぶつけてこられた問い。病名がわかってからわずか3ヶ月というあまりの早さ、その間に出くわした様々な出来事。それらの思いがつまった問いだったに違いないのに、わたしはその問いに答えることが出来なかった。  「なぜ死ぬのか」という問いは、「なぜ生きるのか」という問いの裏表だ。「なぜ生きるか」という問いに面と向かって生きているようでいて、一方突き詰めなくても生きていける。「なぜ死ぬのか」についてはよほどのことがなければ考えようともしない。その答えが見つかって死ぬのか、見つからなくても死ぬのか、死に臨む本人に聞くすべはない。  結局のところわたしたちは、考えても考えなくてもとりあえずは生きていけるように出来ているのだろう。だが、愛する者の死に直面すると、考えなくても出来てきたということがどれだけ幸せなことだったのか改めて気づかされる。同時に「意味ある生」へと目覚めさせられる。「死」とは、生きている者への警鐘であり鉄槌なのかも知れない。  多くの方々が古川奈菜さんとの別れを悼んだ。急な知らせは大きな衝撃を与えたことだった。冬の夜にもかかわらず、古川さんのお子さんたちの関係者だろうか、たくさんの小学生や幼稚園生もお母さんと一緒に参列されていた。川崎教会のブログも、奈菜さんが亡くなった翌日から訪問者が飛躍的に増えた。参列を予定した人たちが、ネットで情報を得ようとされたのだろう。  奈菜さんはその最期に、「生きること」「死ぬこと」の意味を一緒に考えるという大きなチャンスをくださった。司式者としてその機会を十分に活かすことが出来ただろうか。
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