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No.252 一つでなんかなくていい

エッセイ「多摩川べりから」
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 農村伝道神学校で「キリスト教概論」を教える授業も先週で講義が終わり、今週は映画「ミッション」を受講生と一緒に見て最後となる。評価はこのビデオの感想文を書くことで合格という手はず。  学生たちと一緒に物事を考えるのはなかなか刺激的だ。自分にとっても勉強になる。特に「信仰」とか「真理」とか、とかく検証の対象にならないものを扱うのだからなおさらだ。自分が学生だった時よりも今の方が遙かにその意義を感じることが出来る。  わたしたちは、普通に「信じる」ということばを使うが、何を、どう信じているだろう。クリスチャンとして「信じる」対象は「神」あるいは「キリスト」なのだが、それらの言葉が指し示している事柄はそれほど自明なことではない。わたしたちが知っているのは「神」そのものではなく「神についての言説」であるからだ。聖書はいわば言説の寄せ集め。それらの証言を通して、あるいはそれらの証言によって、わたしたちは信仰を養われる。しかし、証言は必ずしも全て一致しているわけではない。時に矛盾している記述もある。重点が異なる記述もある。それらを通しても養われるのだ。それを「ただ一つ」に決めてしまうことには無理がある。ましてそれが単なる数あわせで「正しい」と定められることに、一体どれだけの意味があるだろうか。  ブレることがすっかり嫌われる風潮になったわたしたちの社会。だがブレないことがそんなに大事なことなのだろうか。変化することは認められないのだろうか。何が何でもシロかクロかでなければならないのだろうか。  こんなことを言う自分に驚いている。わたしはずっと白黒はっきりしていなければ許せなかった。グレーであることは最も嫌っていた筈なのだ。それがこんなことを言い出すとは、変節だしブレまくりではないか。  わたしを変えてくれたのは「一つ」を標榜する方々のおかげだな。冷笑。
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