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No.255 時間をつかう、時間をかける

エッセイ「多摩川べりから」
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 PTA会長という職責で川崎小学校の「入学説明会」に出席した。挨拶をすること、説明をすることがその職責である。  最初に挨拶し最後に説明するので、その間の時間は他の説明を聞いていた。その中で思わずのけぞってしまったことがあった。  川崎市内の学校は幼稚園も含めて校納金は川崎信用金庫の口座引落で行う。そのためには手続きがいる。説明に立ったある教諭が「期日までに手続きをしていただかないと、担任はとても大変で、面倒くさいお金の計算に手間取られてしまう。その分こどもに向き合えない」と言う(思い起こして書いているので正確ではありませんが)のだ。これには驚いてしまった。  面倒なこと、手間のかかることは誰かに・何かに押しつける──もちろんそこにビジネスチャンスをつくり出す強者も居るのだが──のが、わたしたちの「便利な」世の中なのかも知れない。そうやって生み出した時間を自分のために使う、自分へ投資する。それがスマートな生き方なのかも知れないし、かつてそのように喧伝されていた時代は確かにあった。だが、どうだろう。  手間を惜しむこと、時間をかけないことが、それほど大切なことなのか。その結果生み出された時間をさらに自分のために使うことが本当にスマートなのか。なんだかすきま風に晒されるような寂しさが漂う。わたしはそれほど愛に溢れた人間ではないのだが、誰かのために時間を使うことほど「愛」の行為は他にないと思う。  かの先生の言うことは、確かに真実である。生み出した時間でこどもに向き合うのも本望だろう。だが、仮にもお願いしている相手に向かって「面倒くさい」だの「手間がかかる」だのという表現はいただけない。「担任も大変ですのでご協力ください」ぐらいにしとかないと。  時間を使うことこそ「愛」。手間取られようや、ねぇ。
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