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No.257 「音」を「楽」しむ

エッセイ「多摩川べりから」
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 恒例の「小さな音楽会」が行われた。  産業振興会館をお借りして、ことり組・こひつじ組・おりーぶ組がそれぞれ、楽器の合奏や歌を披露する。ひとりひとりの子どもの育ちがステージから伝わってきて、なかなか感動的で、おもしろいひとときだ。  「発表会」となると、たくさん練習して成果を上げ、見栄えを良くしようという気持ちが、特に大人にはどうしても芽生える。その成果がそのまま教師の評価に直結するように感じられるとしたらなおさらだろう。幼年鼓笛隊のような素晴らしいステージも、必要なところでは必要なのだろう。だが、わたしたちはステージ上の成果を求めない。そうではなく、子どもたちが楽しんで楽器を演奏するその選択を求める。子どもたちが「もっとやりたい」と思えるような練習、「またやりたい」と思えるようなステージをつくりたいのだ。それが成果なのだと思うからだ。  だからたとえば太鼓をやりたい人をその時に求める。昨日は鈴を鳴らしたけど、今日はタンバリンを鳴らしたいというその気持ちに応える。だから勢い、成果はその日によってまるで異なる。それがまた楽しい。  集団が苦手な子どももいる。客席にお母さんの姿を見つけると、音楽どころではない子どももいる。それもまた楽しい。おうちの方々にとって、そういう我が子を受け入れるのには少し覚悟が必要かも知れないけれど、でも逆にそれこそがその子の個性なのだ。個性は時に叱咤激励しながらでも、上手に伸ばしてやる以外にない。  ミュージックを「音楽」と訳した人はいったい誰なのだろう。「音」を「楽しむ」とはなんとも粋なネーミングではないか。かく言うわたし、少年時代にはピアノに悩まされた。歌にも悩まされた。楽しむどころではなかった。だからいっそう、「楽しむ」ことのおおきな意義を思うのだ。
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