ようこそ、川崎教会へ

No.265 聖餐に関する学び

エッセイ「多摩川べりから」
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 川崎・鶴見地区の総会前に、地区の「聖餐に関する学びの会」を開くこととなった。二度目の開催である。  昨年は教区などでもやるように、「オープン」と「クローズ」の双方から聖餐についての発題を聞くことにして、オープンから生田教会の禿牧師、クローズから元住吉教会の三宅牧師の発題を伺った。ただ、一時間という限られた中で二人の発題を聴き、フロアから発言して学びを深めるというのは無理があったし、ガチンコの発題では学びとしても深まらないという反省もあって、今年は地区の新年礼拝で与った聖餐について「大切にしていること」を会場教会の司式者に話してもらおうということになり、たまたま川崎教会の牧師であるわたしが発題者となった。  大切にしている思いはいくつかあったので、それを中心にお話ししてきた。「聖餐式は大切だ」という議論は多いが、その「大切」な儀式のために準備するパンやぶどうジュースは既製品で間に合わせているということへの疑問、「どの教派」にも開かれているのに告白される「信仰告白」が教団限定なものである矛盾、そして参与する方々へのまだまだ十分とは言えない配慮を巡った話である。わたしにとっても、みんなに分かち合うために自分の行為を振り返ることで、思いを改めて考えてみる大事な準備の時間になった。  あまりくどくどと説明することは好きでもないし上手くもないのだが、しかし繰り返し繰り返し語り、確認し、残さなければ残らないというのもまた事実。どうしてそうしたのか、なぜその方を選んだのかには、実は明確な意図があったにもかかわらず、確認し続けなければそれらはあやふやになってしまう。その意味でも今回思いを纏めたことはわたしにとってもまた教会にとっても良かったであろう。  対立しがちな話題だが、和やかな時となったことが嬉しいことでもあった。
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