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No.272 責任をとるということ

エッセイ「多摩川べりから」
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 「立地自治体の判断が得られれば、最終的に私の責任で再稼働を判断する」。5月30日の関係閣僚会議で首相が明言していた。そして6月8日、福井県知事の要請に応える形で「国民生活を守るため、大飯原発3、4号機を再稼働すべきだというのが私の判断だ」と表明した。  「責任をとりなさい」とか「わたしの責任で」などという言葉は特別意識せずとも普通によく使われる言葉である。だが、それは大概文字通り一人の人間の影響範囲についての表現であるし、明確に意識しないまでも、自分に背負えない範囲まで「責任をとる」とはなかなか言わない。あるいは実際に責任をとらねばならない事態に陥った場合に、それをどのように具体化するのかについても、本来ならば「とる」と発語した時点で明確にされているべきであるが、なかなかそこまで突き詰めて考えられてはいない。責任の所在は明らかだとしても,その責任のとり方については曖昧なものだ。  個人の負える範囲に限ってももともと曖昧な表現の一つにすぎない「責任」を、首相が、原発再稼働に関して「とる」という。その具体的な事柄は本人も発言しないし周りも求めていない。だがそこで問題になっている事態では、万一の事態が起こったなら──しかもそれがもはや「想定外」と呼べないに関わらず──首相個人がどれだけ誠意を尽くしてもとれない「責任」ではないのか。例えば事故後15ヶ月になろうとしているのに、故郷を捨てたまま避難しなければならない人たちの生活を、彼は首相としてとることが出来る、出来ているとでも言うのだろうか。現に出来ていないことをさらに積み増すその言動を、後押しするのはいったい何者なのか。  尤も首相の頭の中にあるのはどうやら原発リスクではなく消費税増税なのだろう。何せ「政治声明を懸ける」と具体的に明言してしまったのだから。首相・政治家を辞めることだけはどうしても避けたいということだ。
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