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No.286 必要は発明の…

 いつまでも残暑が続く今年。毎朝無人になる牧師館は熱波対策としてカーテンやブラインドを閉めておく。窓から伝わる熱や降り注ぐ光がもったいないなぁと毎日思い続けながら。
 熱や光はエネルギーそのものだ。だからこれを上手く利用したいと願うのは特別な考えではない。昔からその知恵は生かされていた。子どもの頃、平屋の我が家の屋根には父親手作りの黒塗り水槽が取り付けられていた。日中太陽熱で水道水を温め、夕方風呂に取り込む。「○○ソーラー」などがそういう装置を販売するずっと以前の話。その頃「光」が発電するなど素人の想像の域を遙かに超えていたが、今ではふつうに身近で「太陽光発電」が利用されるまでになった。
 「必要は発明の母」とは良く言われること。そうやって人々は暮らしに便利と快適を加えてきたのだ。
 原子力という圧倒的なエネルギーを前に目がくらんでしまったわたしたちは、「必要は…」を遙かに超えて自分の生活といのちをその技術に委ねてしまった。自然エネルギーの開発費用はどんどん削られ、エネルギー関連予算はその殆どが原子力に注ぎ込まれるようになった。フクシマの事故後、原発推進派が「エネルギー安保」などとまことしやかにしかも声高に発言しているが、何を隠そう過度な原子力集中こそ「エネルギー安保」の観点からもきわめて危険な選択だったのだ。
 政府は14日に「30年代原発ゼロ」のエネルギー戦略を決定した。総理が官邸前デモの主催者とされる人たちとわずか30分だけ会談したと伝えられたが、きっとその感触から「脱原発は票になる」と踏んだだけなのだろう。
 「核燃料サイクル維持」「原発は重要電源」と併記される「脱原発」戦略など、絵に描いた餅よりも意味がない。