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No.300 投票日に「ナボトのぶどう畑」を読む

エッセイ「多摩川べりから」
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 投票日前にテレビや新聞が「自民圧勝の模様」と伝えたとおり、蓋を開ければ「改憲」を口にする人たちが2/3を占める憂鬱。  先週、ぶどうの会の聖書の学びで、列王記の「ナボトのぶどう畑」の記事をみんなで読んで考えた。それまでは特に心動かなかった箇所が、この日はどうにも刺さってきた。それがここ。「その町の人々、その町に住む長老と貴族たちはイゼベルが命じたとおり、すなわち彼女が手紙で彼らに書き送ったとおりに行った。」(列王記上21:11)。  この箇所は異邦人である王妃イゼベルの悪を糾弾している箇所だが、そのイゼベルの悪巧みに対して、しかも明らかに不正な手段による悪巧みに対して、ナボトのいる町の人たち──長老と貴族たち──は、その悪巧みを無批判に受け入れ、片棒を担ぐ。不正を計画したのは確かにイゼベルだが、それを実行したのは町に住む人たち。  日曜の夜、開票結果が次々と伝えられる中、わたしたちも結局ナボトの町の人たちと同じなのだという重苦しさが募った。  翌月曜朝、重い気持ちを引きずりながら目ざめて、しかも夢ではなかった現実を見せつけられながら、しかし思った。いかにイゼベルが巧みに悪を諮ったところで、民がそれに応じなければ正義は貫かれただろう。そうだ。わたしたちもなすべき事をなせばいいのだ。それが国王の命令であれ、王妃の命令であれ、信義にもとるものを拒否することで貫かれ守られるものがある。確かにそうするのは大変に違いないが、道が全く塞がれているわけではないし、選択の余地は残されているのだから。  「武器による戦いには、勝利がない。神と共になされる戦いのみが、勝利を収める。そのことによって十字架に行き着くことになっても、勝利はなおそこにある。」。ボンヘッファーの言葉が重く心に響く。
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